優しさだけでは救えない・・・・
2010年12月23日
寒い日が続いています。厳しい季節です。でも、寒い外から帰って来て、部屋の暖かさにホッとため息をつくのも、寒さの演出なのでしょう。
車窓から夜の陰影の山の中に、家の灯りがともると、街のネオンの明かりよりも、人の温かさを感じられるものです。
人も優しさだけでは、乗り越えられない人生もあります。カウンセリングの勉強をしていると、優しさだけが強調されて、必ず訪れる人生の冬を見ないようにする傾向があります。
子供を失った親が、「あの子が生きていたらね・・・」と言うと、多くの人は「いつまでも、泣いていてはダメ。未来を向かなきゃ」「死んだ子供さんのためにも笑わなきゃ」「いくら言っても子供は、帰らないのよ」と元気づけようとする。でも、それは言われている子供を失った母が、百も承知なのです。そのセリフの数々は、子供を失った親が一番考えてきたこと。でも、分っていても言いたくなるし、また、思い出しては哀しみに途方にくれるのが人間なのです。
それを、知っているから、見守ることしかできない時もあるのです。
僕の長男が一歳の時に、小児がんで一年入院して治療を続けた。その時に、あり難かったのは、黙って、遠くから見守っていてくれた人でした。
幼い頃に、育ての母が自殺した時、心配して、声をかけて「可哀そうに」と言ってもらった近所の人たち。でも、そのすぐ後に、笑いながら、近所のうわさ話を始める大人たちを見て、しょせん、人ごとなのだと・・・・よけいに淋しさが増したことがあります。
自己満足のヒューマニティは、その人のためにならないこともあります。
日々のカウンセリングの現場でも、子供が交通事故で亡くなって2カ月後に、身体の虚脱と、悲しみから、精神科医にかかった母親に、2度目に診療の時に、精神科のドクターが「まだ、悲しみはなくなりませんか?」とたずねたと言う。
その母親は病院を出て、どうやって家に帰ったかわからないほどに落ち込んでしまいました。
最愛の娘を失って数カ月の母親にかけるべき言葉ではない。
現実の社会には、なぐさめも、やさしさも、色あせるくらいのシーンはいくつもある。
C・ロジャーズ博士は、ありのまま受け入れることを重要視した。カウンセリングを学ぶ者には共感を求めた。どうしようもない現実に出会った時に、それを乗り越えるのはクライエントであり、カウンセラーが外から「気のきいたアドバイスで」乗り越えさせるものではない。それは、相手が現実と向き合って出すべき答えを安易に奪うのだと・・・・。
カウンセリングで、気のきいたことを言うよりも、起こったことを受容する。悲しみも、怒りも、すべて、その人にある感情。
そこに「ある感情」・・・・
その「感情を抑えつける」ことで神経症になるのだとフロイトは言う。出すことは、捨てること、だから、フロイトの精神分析もすべて「吐き出させる」ところからスタートする。
拒食症も、母親の干渉に耐えられないことに気づくと、快方に向かい、食べた物をトイレで吐くと言う行為がなくなることもある。
憎しみという本質を出さないから、「吐く」という行動に、憎しみが転化される。
それが、心の中の憎しみに蓋をすることにまたつながる。
それを「許しました」で着飾っても、その感情を乗り越えられない。だから、すべてを「吐きだす」という行為が大切なのです。
これは灰谷健次郎さんの本から・・・・
チューインガム一つ
せんせい おこらんといて
せんせい おこらんとってね
わたし ものすごくわるいことをした
わたし おみせやさんの チューインガムとってん
一年生の子とふたりで チューインガムとってしもてん
すぐ みつかってしもた きっと かみさんが
おばさんにしらせたんや
わたし ものいわれへん
からだが おもちゃみたいに カタカタふるえるねん
わたしが一年生の子に 「とり」いうてん
一年生の子が 「あんたもとり」いうたけど
わたしは みつかるのがいややから いややいうた
一年生の子がとった
でも わたしがわるい その子の百ばいも千ばいもわるい
わるい わるい わるい わたしがわるい
おかあちゃんに みつからへんとおもとったのに
やっぱり すぐ みつかった
あんなに こわい おかあちゃんのかお 見たことない
あんなに かなしそうな おかあちゃんのかお
みたことがない
しぬくらいにたたかれて
「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」
おかあちゃんはなきながら
そういうねん
わたし ひとり出ていってん
いつでもいくこうえんに いったら
よその国へいったみたいな気がしたよ
せんせい
どこかへ いってしまお とおもた
でも なんぼあるいても どこもいくところあらへん
なんぼ かんがえても あしばっかりふるえて
なんにも かんがえられへん
おそうに うちにかえって
さかなみたいに おかあちゃんにあやまってん
けど おかあちゃんは
わたしのかおを見て ないてばかりいる
わたしは どうして あんなわるいことしてんやろ
もう二日もたっているのに おかあちゃんは
まだ さみしそうにないている
せんせい どないしょう
村井安子
※子どもに教わったこと 灰谷健次郎 著 角川文庫より
この詩を小学校の三年生の子供が書いた。すごい内面を見つめた文章です。この文を書かせた、灰谷氏も前掲書で、これは私の宝物だと言っている。死ぬまで、いや、死んでも抱きしめていくだろうと。安子ちゃんはつらい時間によく耐えたと彼は言う。あのか細い体を震わせながら、どこにそんな力がひそんでいるのかと思えたと。そして、安子ちゃんは強い人間に成長したと彼は語る。
灰谷先生は、この詩は、安子ちゃんにあれこれ説教を言って書かしたのではない。国語の授業でも、作文の授業の中で生まれた文章でもないのです。灰谷先生は、母親にうながされて、一枚の紙切れに、「わたし盗みをしました」と書きつけた紙切れを差し出す安子ちゃんに、「安子ちゃん。本当のことを書こう、な」と一言だけ伝えた。そして、安子ちゃんは再び泣き出す。
灰谷氏は言う。
ある出来事がとつぜん彼女を襲う。幼い魂は翻弄され、傷つき、うめき声あげる。お母さんに強制されて「盗みをした」と告げることが、本当のことだと私には思えない。安子ちゃんは、あきらかに許しを得ようとしている。むごいことかもしれないけれど、助けを求める世界からは魂の自立はないことを、体験的に私は知っているから、村井安子に、だから、私はそう言った。
灰谷氏も、敗戦時に、飢餓に耐えかねて盗みを働いた体験がある・・・あるからこそ、盗みそのものと対峙してほしかったのだ。これは道徳の問題では断じてない。
村井安子は一字書いては泣く。一行書いては泣く。いつのまにか教室は真っ暗になっていた。
それは、村井安子が泣いているのではない。灰谷氏が泣いている。村井安子だけが泣いているのではない。灰谷氏が苦しみの時間を過ごしている。それが、ロジャーズの言う、「共感」沈黙の世界なのだ。
想像を越えた魂の痛みを、一緒に過ごすしかない。そこに、優しさも、ヒューマニティも吹き飛んでしまう現実の真の世界がある。
灰谷氏は、その時をふり返り、「人間がつよく生きるということは、このことなんだ!安子ちゃん、がんばれ」彼は、心の中で叫び続ける。
言葉が拒絶された世界。それは祈りの世界なのだ。それが、子供の心をしっかり受け止める。そのことは、また、灰谷氏自身も、子供に切りさかれている時間を共有することなのだ。
また、安子ちゃんのお母さんの姿勢も素晴らしい。それを感じる詩を安子ちゃんは書いている。
いやなみせ 三年 村井安子
おかあちゃんと いちばへいった
おかあちゃんと たけのこを
見にいく やくそくをしてたん
いきし やす子のいやな
おみせやさんの前を とおった
やす子が 大いそぎで はしろうとしたら
「どないした」とおかあちゃんは言うて
やす子をむりに
いやなおかしやに つれていった
わたしは おばちゃんに見えないように
おかあちゃんの うしろにかくれた
「この子は もうとても よい子になったのに
ここをとおるのが はずかしいのやて」
とおかあちゃんがいったら
「もういい子になったんやから
へいきできてね」といった
(すべて、前掲書)
優しさだけのカウンセリングの世界なら、安子ちゃんの気持ちをくみとって、そこの店の前を、子供の手を握って、足早に通り過ぎるのかもしれません。でも、それでは、現実は安子ちゃんに、永遠に逃げを教え、抵抗を感じる場所が出来てしまう。
逃げないで「現実と戦う」というのは、この安子ちゃんの母の姿勢なのだと思った。僕はこの三人の人達から影響されたことが多くある。それは、カウンセリングの現場でも役立っている。
カウンセリングでも、医療の現場でも、どうしようもない現実に向き合わないとならない時がある。そこには、理論も、言論も、救えない厳しさがある。
カウンセリングを学ぶ者は、言葉の重要性を考えるが、ただただ、現実を見すえ、耐えて待つと言う沈黙の重要性を学ぶべきなのだと思うのです。あれやこれやと議論好きな時代に、本当に優しさとは何かを長い目で見守ってほしい。
優しさを強調するだけでは、クライエントは救えないし、その厳しさの後、乗り越えたことを共に分かち合う瞬間に、僕は人間の強さを感じる。だから、カウンセリングの意味は深いのだと思う。
この時期には、今のままでは「年を越せない」と嘆いている現実があると思う。だから、現実を見すえて、しっかりと耐える強さを試される季節でもあるのです。
時に、街がにぎやかで、はなやかな時には、人は、逆に、さびしさを感じる時期でもありますね。
でも、「なーに、どっこい生きなきゃ、ね!」