「あなたのために・・・」の裏にあるもの | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■「あなたのために・・・」の裏にあるもの
2009年8月4日



 7月は、七夕や皆既日食と昼夜かかわらず、僕の好きな「空観察」に多くの人が魅せられました。
 七夕は、牽牛と織姫が年に一回しか会えないのは淋しいと、子供のころは思いましたが、現代のようなインスタントで、スピーディな時代には、年に一度の夜空の上で二人きりの逢瀬なんて、なんて刺激的で、ロマンチィックなのだろうと思ってしまう今の僕がいる。

 でも、これが天文学者からの視点だと、10億年生きる星が年に一度会うということは、人間が100歳まで生きるとして換算すると、3秒に一回、二人は出逢うことになるという。なんとも、せわしない話になってしまう。

 ゲシュタルト(見方を変える心理学)で視点を変えると、地から出て忙しく鳴いているセミからすると人間はとても長生きだし、屋久島の樹齢何千年の屋久杉から見ると、人間は霧のように一瞬で蒸発してなくなる存在でしかない。

 視点を変えると真実はどうとでも変わるのです。

 そう考えると厚顔無恥と言われている麻生総理も、見方を変えるとすごいと僕は思うことがある。これだけ周囲からも、仲間からも叩かれたらノイローゼにもなる可能性は大いにある。なぜなら、阿部さんも、福田さんもその立場から逃げ出した。でも、彼は逃げ出さない。これに僕は感心する。本当に、面の皮が厚い政治家らしい政治家(嫌味も含めて・・・)だと思う。自民党は好きではないが、今の麻生さんの存在は、ある種のすごさを感じることがある。さすが、子どもの時にセメント屋の息子としてたっぷり愛されたのだろうか・・・・自己信頼感が強いのだと思う。

 麻生さんがアニメファンで秋葉原の若者たちの中に絶大なファンがいるとか、麻生まんじゅうが売れているとか、絶大な支持で総理に迎えられた、と言われると「フン、それがどうした」批判的になるが、周囲に何と揶揄されても、批判されても、顔色を変えないで不敵に答弁する彼に「心は折れないですか、大丈夫ですか」と、ある種のカウンセラー病ともいえる同情した視点で彼を見てしまう僕がいる。

 小泉さんが圧勝した郵政民営化の選挙では、僕は民主党の岡田さんのほうが好きだなぁと思っていたし。ITバブルの時に、起業家に憧れていた若者が、ホリエモンのセミナーに行き「すごいすね、ホリエモンは」と言うと、「そうかなぁ」と心では思っていた僕。今、そんな彼らが「ホリエモンなんて大したことねえよ」と偉そうに論じていると、君たちさぁ、何もしないで、人の話題にもならないで、誰かをスゴイとか、くだらねえ、と批判するエセ一般人やエセ常識人にならないほうがいいと思ってしまう。

 誰かに注目されるくらい志を持ち、そして行動を起こしてから人生の意味を語ろうと・・・・人生をものしり顔で、人を批判している輩ほど、意味のない悪目立ちや、事件を起こして愉快犯になりさがる。

 批判するより、話題の中心になるほうがいい!

 あの本はくだらないと批評読者になるよりも、批評される著者のほうが人生面白し。あんな商売ではダメよと言うよりも、自分でアクションを起こして失敗したほうが人生は味がでる。あのチームでは勝てないよと冷房の利いたところで論評している評論家より、優勝を信じてグランドを走っている彼らのほうが、その瞬間、人生の一分一秒を生きていると思えるから。

 「なぜ山に登るの?」とマイクを向けて聞く側より、「そこに山があるから」と、山に魅せられた登山家のほうが瞳は燃えていると思う。やはり、踊る阿呆に見るアホう、同じアホなら踊らな損そん。くだらないという前に、くだらなさを感じないくらいに、夢中になれる何かに出会っているか?

 汗を流し、時間を忘れるくらいに魅せられたものが、君にはあるのか?そのように自分を振り返ったほうが、偉そうに誰かを批評してよりも人生は豊だと思う。

 僕は昔から、「皆が言っている」「常識」という言葉が好きではない。マイノリティ(少数)の劣勢のほうに興味がある。ネイティブ・アメリカ(インディアン)の保留地に旅したのも、虐げられた民族に興味があったからなのだろう。

 それは「常識」の恐ろしさを感じていたからだと思う。私達の常識、民族の常識、我が国の常識が、どれだけ多くの非常識な戦争を引き起こしたかは、歴史を見れば明白です。自分の常識を疑わない人たちは戦争という狂気へとなだれ込む。

 自分が正義の御旗に立つと、人は正義の権化になり、人を責める攻撃心に、自分自身が酔いしれる。そして、相手の立場を考えないで、感情的な言葉で相手を責める。その時には言葉を選ばない。自分がその言葉で相手をどれだけ傷つけているかを考えもしないで・・・なぜなら、自分は正義の側にいると信じているからです。

 古くは松本サリン事件で、第一発見者の河野氏がマスコミに疑われた時に、そのマスコミの情報を鵜呑みにした自称常識人が毎日「悪魔、この街から出てゆけ」と電話をし、毎日窓ガラスを割った人たちも一方的な情報を信じた人たち。

 耐震構造事件で姉歯氏の高校生の息子に「お父さんの仕出かしたことに、君はどう思う」とインタビューしている正義の権化と化したマスコミに僕は絶句した。その少年が自殺したら、あなたが今度はマイクを向けられる側になる。

 和歌山のカレーヒ素混入事件の時も、林被告の家の壁に「悪魔の棲む家」と落書きしたのも一般の自称、常識人なのです。そこに住む被疑者の子供が、それをどう感じるかを想像もしない。正義の制裁は、自己の正当性を高める。

 「自分が大切に思っているのだから、あなたもこれに従いなさい」これを心理学では『母子一体感』と言います。

 子供は、母親が自分の思ったとおりに反応してくれないと怒りだす。自分がセミを採るのに苦労したことを、お母さんが同じような驚きと感動を持ちながら自分の話を夢中になって聴いてくれないと怒りだす。お母さんがどんなに料理に手を取られていても、自分がスゴイと思ったことはお母さんも興味があるはずだと信じているから・・・・「お母さん」と「自分」は、関心の対象が違うとは思えない。だから、怒りだす。これは幼児性の現れです。

 人は、そもそも違う存在です。立場によって見方が違う。人それぞれに違う感じ方がある。そう思っている人は勢いまくし立てるように感情的にはならない。これを心理学では『離別感』と言います。幼児性から抜け出せない人は、怒りを抑えられない。

 スター殺傷事件も同じです。事件の多くはファンが引き起こします。自分の思っているようにスターが行動しているうちは満足があるのです。でも、自分の思っているような行動や態度をスターが示してくれなくなると、今度はそのスターが苛立ちの対象になり攻撃したくなる。

 昔、愛した人を、意味なく誰かと一緒に攻撃したくなる。愛情という濃度の濃い関係だとそれが強くなります。愛憎とはよく言ったもので、愛と憎しみは、まさに表裏一体なのです。暴露本を書く人も、愛憎のなせる業なのです。

 愛は憎しみに変わりやすい。「あなたのために・・・こんなにした」こうなれば必ずその報酬を求めたくなる。「あなたのためにこれだけのことをしてあげているのだから、あなたもこれくらいしてくれてもいいでしょ」という気持ちになる。

 「あなたのために〜」という愛情はワイロになることがあります。相手は何とも言えない自責の気持ちに追い立てられる。何かを「すること」と「されること」には、お互いに与える、受け取る、という関係性が必要です。

 「愛しています」も時にはストカー的な行為になります。そして、ストカー犯罪者は「愛して、守っていてあげたのに・・・」と窓の外に立たれることが、相手は嫌がっていることなのだということがわからない。だから、その押し付けの愛が、その愛する人の恐怖や不安になっていることに気づかない。いや、気づこうともしない。自分の一方的な感情にだけ心が奪われているからです。

 僕は、よく母親たちに「ストカーをどう思います?」と聴く。「イヤですわ」と親は答える。「なぜ?」と僕。

 「気持ち悪いから。だって、一方的ですもの、相手が嫌がっているのだから」「では、なぜ子供には愛情の押し付けをするのですか?息子さんは望んでいないかもしれないのに・・・・親のストカー行為は許されますか?」

 親たち「沈黙」

 「あなたをこんなに愛したのに・・・・あなたのために・・・」と意地悪な僕。

 「私はあなたのために、こんなにもいろいろしてあげたのに」「俺はお前のために、こんなにもしてあげたのだ」このように無意識に、相手に期待をして何かをすると、相手は感謝してくれるだろうと、誰もが期待します。これを僕は「みかえりの原理」と呼んでいます。母子一体感の押し付けです。そして、相手の行動がちょっとでも気に入らなければ、正義の権化と化した人は、子どものようにヒステリックに苛立ち、怒ります。

 旅行に行く時に、「せっかく連れてやっているのに」という気持ちがあれば、相手が少しでも旅行中に何か不愉快な顔をすれば、腹が立つ。「自分が、この人と来たかった」とは思わない。

 相手に何かプレゼントする時に「買ってやっている」という気持ちがあれば、相手が自分の思ったようにプレゼントを喜ばなければ不機嫌になるでしょう。なぜなら、してあげているからです。それが「みかえりの原理」で、母子一体感です。

 ある婦人が、ご主人と子供を置いて、恋人の元へと走った。でも、新しい生活もすぐに破局をむかえた。その婦人のすべてのセリフの裏には「私はすべてを犠牲にして、あなたの元に来たのに」があった。恋人のほんの少しの不誠実な態度も我慢できない。その婦人は、ケンカのたびに「私は子供すら捨ててきたのに・・・」と相手にみかえりを求める。

 相手に愛や誠意がないと責める。不思議なのは、この婦人は、母親に捨てられた子供の気持ちには無関心だったはずなのに。突然、子供置いて話し合いもなく妻に去られた夫の気持ちには不寛容だったのに。

 やがてロマンチックな愛の関係は、憎しみの泥沼へと移行する。愛情の押し付けは、やがて相手に完璧な愛を求める。

 人は、愛したかったから愛したと思わないとダメなのだと思う。僕は子供を育ていて悟った。ほっとけないから、かかわった。かかわっている時、僕はとても幸せだったから・・・子どもの為ではなく、自分のためだと。だから、離れようとする子どもと、いつかは別れる準備をしなければならないと思う。自分もある人の娘を奪ったのだから、自分も誰かに娘を奪われると覚悟をしている。

 ある有名芸能人カップルが別れた。夫の浮気だ。もちろん、許されることではないのだと思う。でも、すべてのカップルが浮気で別れるわけでもない。彼女の中にも「私は、このスターの立場で、あなたと結婚してあげたのに」が色濃くあったのかもしれない。スターの結婚が長続きしないのは「自分は人気があったのに、それを犠牲にして結婚してやったのに」が、お互いに色濃く影を落としているからなのだと思う。

 最近、僕は苛立った時には「自分がしたくて行動した」と思うようにしている。育てたくて、育てた。愛したくて、愛した。これが一番罪がない。

 ゲシュタルトの心理学では、二人称を、一人称に変えることを求めます。「相手によって苛立たされる(二人称)」ことはないという。すべては自分の思い通りにならない相手に対して「自分が勝手に腹を立てている(一人称)」のだと。

 お母さんに腹が立つのではない。自分がお母さんの言動に勝手に苛立っているのです。お母さんは「早くいい人を見つけなさい」「いつまでもフラフラしないで、将来設計をたてないさい」と、お母さんの価値観を語っているだけ。自分はそれを聞いているだけなのです。その後に「ぶつぶつ言われたくないわよ」とか「干渉するな」と、みずから腹を立てているのだと。

 あなた自身も人の思うようにならないのなら、母親も自分の思うようにならないのも当然です。

 「相手が悪い」という二人称だと、相手が変わってくれないと、自分には幸せは訪れません。でも「私が一人で怒っている」なら自分の感情です。それなら自分でコントロールできるでしょう。

 なぜなら、「他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」ですから。

 最近、僕も新しい試みをしようとしました。その時も「あなたのために言わしてもらうけど・・・」忠告のように但し書きがあるのだけれど、攻撃心としか思えない人たちがいました。新しい試みのいいところは見ないで、問題点を探す人たちです。この新しい試みで、僕自身もリスクを負い、収入的に僕がどれだけマイナスになるかを見てはくれない。その試みでプラスになる人達もたくさんいるのだとは考えようともしない。まだ、「新しいことは面倒だから」と自覚しているなら救われる。でも、これが「先生のために・・・」となることに、僕は悲しさを覚える。

 話を聞いてくれないと文句を言いながら、人の話を聞かない女性がいる。誠意がないと言いながら、誠意のない文章で相手を責める男性がいる。あの子供は愚かだと言いながら、自分の愚かさに気づかない先生がいる。お金じゃないだろ人生は、と言いながら、お金に執着する人がいる。妻が自由を与えてくれないと言いながら、夫が妻を束縛していることもあります。人のことは気になるのに、自分の心の中を知ろうともしない。

 大切なことは、誰かに対して苛立つ時というのは、自分の中で何にこだわっているかを探るチャンスでもあるのです。その嫌う相手の中に映し出しされているものは、自分が一番こだわっていることでもあるのですから。それが自己の洞察です。怒っている時こそ、自分を知るための絶好の機会なのです。

 自分は正しいと思っている人たちは「あいつのために言っているのに」「奴のことを考えて言っているのに」と自分の正当性だけを語ります。でも、その人たちの真なる動機は、『あいつのため』ではなく、「自分が楽をしたい」とか、「面倒くさい」とか、「相手に負けたくない」とかである場合が多いのです。そして、それを見つめようとはしません。

 人を批判する人に限って、その当人に直接、真意を尋ねてこない。ほとんどの場合は陰口になります。それを助けるのは「みんなが言っていた」という当てにならない論拠に落ち着くのです。

 その人が批判している内容に、多くが賛成していることを批判者は知ろうともしない。

 誰かに対して「あいつのために」と思う時には、僕は、直接当人に伝えています。それが仲間なのです。本人のいないところで言う正義は偏りやすく、「皆が言っているという」論法は噂が噂を呼び、ゆがめられる危険性をはらんでいるからです。それが、心を仕事にしている人のマナーです。

 でも、何かをやる時に、批判されて僕が落ち込むのは、僕の中で「誰かのために・・・」という無意識があるからなのです。これも「みかえりの原理」です。自分が信じたからやるでいいのです。したいからする。すべては誰かのためではないのです。

 8月に入って、人に注目されない日の空を僕は見上げています。「皆が見ているから」「皆が信じているから」・・・そこから離れて、何もイベントのない空を仰いでいます。人の心のように移りゆく空を見ながら、真実を知りたいと願っています。今まで信じてきた学問を、僕はやっぱり信じています。だから、多くの仲間を探しに旅立ちたいと思っています。

 僕はいつも少人数のマイノリティ側にいることが多いようです・・・昔から批評するより、チャレンジする側へ。今までも、そして、これからも。

 これからはますます暑くなるでしょう。国内では選挙と論戦が始まります。「永き戦い」とマスコミでは言っていますが、宇宙のスケールからすると、それも下天のうちに比べれば、夢幻のごとく一瞬なのでしょうね。今、なにげなく発する言葉の重みをかみしめる時なのかもしれません。

 今、時代は皆がそうだからと憲法九条の見直しをとの声も強くなっています。少数意見になっても僕は武力の衝突は避ける側にいたいと信じています。どんなに時代が変わっても、人を殺すことの正当性を主張する側には立ちたくはないのです。イラクの子供たちも、北朝鮮の子供たちも、大地の大切な宝物なのだから・・・・・

 みんなが言っているという言葉で、安心する側ではなく、みんなの意見とやらを疑い、単純に反応しないで、物事の奥行きを見つめ続ける側でいたいと思っています。

 ともあれ、坂本竜馬の言う、

 世の中の人は何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る。










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