「今この時」の永遠 | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■「今この時」の永遠
2009年4月5日



 4月、新しく生活が始まる季節。真新しい本を抱えての入学式、社会に飛び込む入社式。あるいは違う場所に転属をすることもあるのかもしれません。

 でも、新しい旅立ちは、そこに残り見送る側もつくります。いつも旅立つ側でいたいと思っていても、人は歳月とともに、見送る側に立つことが多くなるのかもしれません。

 僕は幼い時から、望む、望まないにかかわらず、見送る側に立たされました。父の愛した人は、必然的に僕の母になりました。そして、女性が父と別れるたびに、僕にも悲しい別れの時がおとずれました。だから、子供の時は、別れなんてない世界を求めていたように思います。けれども、大人になるにつれ、それはかなわないことだと知りました。

 愛する人を幸せにしたいからと願いから行動したことが思いもよらず相手を傷つけることもあります。そんな時に、人は驚き、苦しみながら、自分が傷つけられた時には、許せる人間になろうと思う人は優しい人です。

 「愛は惜しみなく与えるもの」と言うけど、与えたくても時間がなくてできない。または、誰かに遠慮して、お金がなくて、立場が邪魔して、心に余裕がなくて、相手の期待がわからなくてと、相手の愛に完全に応えることは難しいものです。
 同じように、相手も自分の期待に100パーセント応えることはできません。

 お互いに愛を求めても、満たされない時には、どちらにも悲しみがつきまといます。それが、恋愛関係の表裏にある裏側の淋しさです。
 ただの友達ならばうまくいくことも、恋愛関係になるとこじれることがあります。お互いに愛すれば愛するだけ相手に求めるものが大きくなるからです。

 好きだからこそ、お互いに求め合うことに疲れ果て、別れることもまた起こりうるのです。

 救われない悲しみは愛情関係が終わることではなく、愛し合っている時は相手に優しくし、別れたら相手を悪く言うことです。二元論的な単純な愛でしか人を愛せない心です。
 そのような人は、味方か、敵か、で人を分けるしかで人間関係を築けない。単純な二元論でしか相手と出会えない人です。

 自分の期待にこたえる子供なら愛せる。自分のもとから離れたら子供は愛せないという親も二元論的な愛なのです。そんな時にこそ自分自身を見つめるべき時です。昔から愛していたのは子供ではなく、子供が自分自身へ忠誠するか、服従するかであったと。
 他者愛ではなく自己愛が中心であったと自覚する必要があります。

 だからこそ「愛は惜しみなく」という言葉は深いのです。

 自分に向けられた愛だけを愛したのか、本当に相手そのものを愛したのかを見つめ直すことです。

 そんな自己愛の親に育てられると、その子供も人間関係にワイロを求める人に育つ可能性があります。愛してくれるなら愛すけど、自分から去った人、自分に愛を与えない人などに関心がないと思うようになります。それは、やはりエゴイステックな愛であり自己愛の一種です。

 こころの美しい人の共通点は、最初はそう思えなくても、別れた人にも感謝している人たちです。それは自分が愛した時間に感謝できる人です。逆に愛したことをおしいと思う人。過去好きだった人を友達といっしょに笑い飛ばし、自分の思い出の時間まで真っ黒に塗ってしまう人は、やはり自己愛が強いのです。

 昔の恋人の悪口を言っている人を見たり、聞いたりすると、「悲しい人だなぁ」と人は感じます。感じないのは同じ心の持ち主なのかもしれません。

 人はうまくいっている時より、うまくいかない時に愛情の深さが出ます。愛している時期より、別れた後のほうが相手の愛の本質がよくわかるものなのです。愛は与えるか、もらえなくなった瞬間に憎むかで、人間性はわかります。だから、過去の出会いを悪くののしる人は、今の人間関係も未来に悪く言う人なのかもしれません。

 もちろん、傷つけられたから、許せないと言う気持ちもあるでしょう。でも、心の澄んだ人は、それもやがては、今の自分に必要な学びになったと感じます。
 その学びを未来に生かそうとするのです。傷つけられたから、相手を傷つくのが楽しいと思う魂は、やはり救われないような気がします。

 そして、長い目で見ていると、すべてのことに感謝している人のほうが幸せになるようです。

 離れていった子供を愛せる人は、本当に子供を愛していたのです。自分から旅立った人の幸せを祈れる人は、愛の本質を学んだ人です。

 見送る側はさびしいものです。しかし、出会いには、別れがつきまといます。

 見送る瞬間にうろたえないために心の準備が必要です。なぜなら、すべてはやがて終わるからです。

 母親の子育ても、子どもの巣立ちと同時に終わります。夫妻も、どちらかの死とともに役割は終わります。部長という役割も、定年退職とともに終わります。関係性は永遠ではありません。何かの人間関係の喪失に、うろたえるのは心の準備をしていなかったからです。心の準備とは何か、それはすべての関係は終わるという覚悟です。

 では、どうすれば別れの覚悟ができるのでしょうか。それは、終わりを意識しながら、「今この時」を味わいつくすことです。

 子供とじゃれ合っている時に、いつかじゃれ合えなくなる時を意識することです。恋人や夫婦で、話し合っている時に、いつかは別れがくると思って「今この時」の会話を味わうのです。すべての出会いは、いつか終わると自覚することです。それが別れの覚悟です。

 別れ、別れってニヒリズム過ぎて、今は考えたくないし、そんな考えは淋しいという人もいるでしょう。
 でも悲しいかな二人に離れる気持ちがなくても、死が二人をいつかは別つのです。今の若々しい相手の姿も、老いとともに失われてゆきます。となれば、今の瞬間の相手とは、この瞬間に私たちは別れているのです。自分自身の「今のこの時」も、この瞬間に別れて過去になっていきます。

 だから大切なことは、「今」のこの瞬間にしっかりと出会うこと。
 「今、この時」は二度ともどってこない。「この時を」なつかしく思う瞬間がいつかは訪れると自覚することです。逆説ですが別れを覚悟している人のほうが、相手にしっかり出会っている。「今この時」としっかり出会っている。

 今のこの時の自分自身も、相手の一瞬の微笑みも、なつかしく思う時がやってくるのだと「今この時」に意識することです。それがさよならの覚悟です。

 永遠とは「今の瞬間」の連続なのです。流れゆく歳月の中に、やがて涙を流すほどのなつかしい「今この時」がちりばめられています。

 自分がこの時、誰かを愛したという心の動きも、すべてが美しい思い出として、過去の時間の中におさめられてゆく。

 いつか戻りたいと思う瞬間が「今この時」にも流れている。その「今この時」を味わうことが大切です。

 ヨチヨチ歩きで歩いている子供の笑顔を。恋人のいたずらな瞳も。お年寄りの丸まった背中の歳月を。家族で過ごしている瞬間の日常を。愛する仲間の笑顔を。好きだった人の手の温もりを。今の自分自身の身体のしなやかさも・・・・
 スナップ写真のように、いつか、なつかしいと思える時が来ること。この瞬間「今この時」は、二度と戻っては来ないのだから・・・・


    ≪もしも世界が明日終わるとしたら≫

  君の声を もう二度と聞けないって わかっていたら
  もっと耳をすまして 聞いておくだろう
  君の言葉も 声の感じも 忘れてしまわないように

  わかっていたら・・・
  君を抱きしめることができるのが もうこれで最後だと
  もし、わかっていたら
  この腕にしっかり抱きしめて いつまでも放さないのに

  君にもう二度と会えないって
  もうこれでおしまいだって もしわかっていたら
  眠らないで 君の顔を見つめていたい 夜が明けるまで

  明日という日が もうやって来ないと もしわかっていたら
  これまで傷つけたことを どうか許してほしいと 心から思うだろう

  わかっていたら・・・
  意見が食い違っても 嫌いになったんじゃないって
  わかってさえいたら こんなに傷つけずにすんだのに

  同じことを見ても 人はそれぞれ見方は 違うんだって そうしたら
  たとえ意見が同じじゃなくても
  もっと 楽しみながら 君の話が聞けたのに

  これが最後のキスだって わかっていたら
  そのキスで伝えたい 誰よりも君は 大切な人なんだって

  君の手がぼくの手をとるのが もうこれが最後と知っていたら
  いつまでも二人でこのままいたいと 心から祈るだろう

  もしぼくの声が もうすぐ出なくなるとしたら
  君に話す言葉の終りに「愛しているよ」って
  きっとつけ加えるだろう

  これが君とのいっしょの 最後の散歩だと わかっていたら
  君への思いを 言葉に伝えたのに 

  愛を込めた言葉は 決してむだにならないって わかっていたら
  心から伝えたいことを 君になにもかも 話してしまうのに

  君のことを 本当はよくわかっていなかったと 気づいたら
  ちゃんと君の言葉を聞いて 君の思いを感じて
  君がどうしてほしいのか もっと知ろうとするだろう

  わかっていたら・・・
  あの電話が 最後の電話だと もし、わかっていたら
  君がうれしくなるような 僕の愛が伝わる言葉だけを
  言ってあげたかったのに

  君の笑顔を もうすぐ見られないとしたら
  君がくれた幸せな気持ちのすべてに 感謝を伝えられたのに

  わかっていたら・・・
  君がくれた 愛と 強さと 支えが もうなくなるって
  そうしたら 君のもとに走っていって
  何百万回も ありがとうって言えたのに
  君のおかげで どれほど・・・ぼくの人生が 幸せだっただろうって

  君の思い出が とても大切なものになると わかっていたら
  時間をとって 君が生きてきたあかしを 君の思い出を
  ぜんぶ拾い集めたい

  うわさ話や 中傷や 陰口には
  言われる人だけじゃなく 聞く人の心も傷つくんだと知っていたら
  もっと話す言葉に 気をつけたのに

  自分の期待を押しつけて 人を苦しませるのは いけないって
  わかっていたら 人をあやつろうとせず もっと 人のために
  何かできることはないか考えられたのに

  人は力ずくで 変えることはできないって わかってさえいたら
  無理に変えようとしないで いいところも欠点も
  ありのままを愛したのに

  ぼくの回りの人々の知恵やものを見る目の確かさに 気づいていたら
  ぼくが話すよりも もっと人々の話を聞いて学ぶことに
  一生懸命になっただろう

  成功は 地位やお金では測れないと わかっていたら
  永遠に変わらないものを見つけて 大切にしただろう

  わかっていたら・・・
  人がぼくの生き方を お手本として見ていると ぼくが人の人生に
  影響を与えていると そうしたら ぼくがいつも神さまの望む
  自分でありますようにって 祈ったのに

  ぼくにだって 人にやさしく 勇気づけや 癒しの言葉を
  かけてあげることができると わかっていたら
  ぼくは どれほど多くの人と知り合い 心に触れることができただろう

  友情が こんなに大切だったなんて わかってさえいたら
  誰のことも きっと 当たり前には思わないでいれたのに

  幼い子どもの命が 時に断たれてしまうことがあると
  わかっていたら その小さな体を抱きしめて
  こんなふうに寝かしつける夜が 
  もっと長く いつまでも続くようにと お願いしたのに

  この子を寝かしつけることは
  もう二度とないって わかっていたら
  しっかりと腕に抱いて 急がずにゆっくりと
  いまここにいる奇跡を かみしめるだろう

  神様には目的があって ぼくを創ったのだと 知ってさえいたら
  ぼくは一生懸命神さまを探して 僕に何を望んだのかを
  教えてもらおうとしただろう。

  わかってさえいたら・・・
  人生の物語を 書き直すのは いつになっても手遅れじゃないって
  そうしたら もっと早く ペンを取り出したのに

  本当の幸せは 心の持ち方しだい
  前向きな気持ちが一番大事だって 気づいていたら
  生きていること 働くことができること
  愛するチャンスを与えられることにも 心から感謝するだろう

  神様はぼくを愛していて その愛の手は ぼくの恐れや
  不安にも 届くことを知っていたら 
  神様の愛に守られながら どんなことにも 立ち向かっていけたのに

  神様は 一つの扉を閉める時は また別の扉を開いてくれると
  知っていたら もっと変化を恐れずに 新しいチャンスや冒険に
  挑戦しただろう。

  ただ安全でいるよりも 人生にはもっと何かがあるってわかっていたなら
  もっと 喜んで自分ができるかぎりのことを 誰かにしてあげたのに

  悲しみや苦しみが これほど深く 人を打ちのめすものだと
  もしも、わかっていたら そうしたら
  誰かのそばに ぼくは ついてあげられたのに

  わかっていたら・・・
  なるべき人になるために 神様は一生という時間を
  与えてくれたと気づいていたら 自分にも 他人にも
  もっと忍耐強く 接していただろう

  ぼくの日々がもう終わりに近づいていると
  もし知っていたら
  一日一日を大切に過ごし
  これまで以上強く 神様にお願いするだろう
  「残された日々を、幸せに過ごせるように助けてください」と

  生きている日々は はかなく 過ぎてしまうから・・・・

≪PHP ランス・ワべルズ著 牧野・M・美枝訳より抜粋≫


 今この瞬間の、自分の息。自分の手。周囲の音。自分の身体。愛しき人々たち、この瞬間の奇跡を。
 今の思いも、きっと過去へ過ぎ去っていく。だから、「今」にさよならを言う前に感じなければならない。今この瞬間の「今ここ」の中にある永遠を・・・












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