ラーメンマンより | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■ラーメンマンより
2008年2月8日


※星野道夫の仕事 第1巻 カリブーの旅 朝日新聞社刊 より

 無知の知という言葉がある。自分はいまだに何も知らないということを知っているということです。知らないということを知っている人は、謙虚だから、いつまでも学ぼうという姿勢を崩さない。何よりも他人に偉そうにしない。そして、挑戦的な目ではなく、優しい目をしている。

 一番厄介なのは「無知の無知」です。自分が何でも知っていると思い込んでいて、人を上から見下して、頼まれもしないのに、いつも教えてあげましょうと言わんばかりに話をしてくる人。当然、いつも教えてあげようという姿勢が会話の端々に現れる。

 講師という立場の僕は、そのような洗礼を受けることは少ないが、誰かが被害にあっているのを時折見かけると、大変そうと同情してしまう。

 僕の好きな人は、無知の知のある人です。いつもニコニコ笑っていて、いつも人の話をありがたそうに聴く人です。とくに幼い子供や、年下の話を聴く人です。これがなかなかできない。
 なぜなら、分かっていることは、時間の無駄だと思うから、結論を急ぎたくなる。だから、先回りして「こういうことでしょ」と言いたくなる。

 タイムイズマネーの時代。時間が何より大切な時代。だから、時間が奪われるのは何より損したような気分になる。ましてや、相手の盲点を見つけると正したくなる。

 無知の知の人はこれをしない。なぜなら、いまだに自分も発展途上にあること知っているから。もちろん、たずねられると、自分の今の思いを語ることがあっても、これが絶対完全な真理だとは言わないような気がする。謙虚に自分の今の無知を語るまでである。

 実るほど頭を垂れる稲穂かな・・・・

 テレビの討論番組を見ていると、興奮しながら自分の正しさを、口を尖らして語っている姿は、無知の無知の現れです。まるで子供のケンカのようです。まともな出演者なら、売名目的でない限り、二度とは出ないでしょう。なぜなら、討論にならない。政治家の国会中継も同じ気持ちになることがあります。

 だから、僕も熱く話しすぎて、誰かに、なるほどと納得され信じられ過ぎると、申し訳なくなって、「僕もできないんですけど・・・」とか、「これも分からないですけど・・・ね」と逃げたくなる。その後で、僕もまだまだだなぁ。と思ってしまう。

 仕事がら自分の考えや勉強してきたことを語らないといけないだけに、過度に信じられ、頼られると逃げたくなる。「僕ごときを信じてはいけない」と思ってしまうから。僕自身も、いまだに迷いの中にいるからと・・・・。

 頼る怖さを知っているつもり。ヒットラーも、オウム真理教の麻原も、“なるほど”と思うことは言っていたはず。でなければ、文豪ゲーテを生み出し、素晴らしい物づくりをするドイツ人を、ユダヤ人大量虐殺の殺人集団に変貌させることはできない。

 麻原ですら、最初から狂人であれば、優秀な大学出の若者を先導できなかったはず。だから、気をつけなければならないのは、狂った人ではなく、カリスマ性があり、人をなるほどと思わせる魅力のある人です。その人が自分は正しい、自分こそ神の使いだと信じ込む時に、集団を間違った方向に引っ張ってゆく。最初から間違った方向の話をするなら、人は誰もがだまされない。

 正しいはずの人物が自己過信し、神格化するプロセスに多くの人は気づかない。あまりにも今まで正しかったから、この人が間違うわけがないと盲信し、マインドコントロールの落とし穴に入る。

 今は人生を語る人、人生を導く人を求める時代。そして、その人たちが救われない人からお金を取り、一番豊かな暮らしをしている。そこに時代の狂いがある。

 僕もお金で生活している普通の人である。霞を食べる仙人でもない。
だから、必要以上に高く評価されると、お尻がかゆくなり、申し訳ない気になって居心地が悪くなる。素晴らしい人なら、お金は絶対に取らない。イエスが言われたように、「神の国で偉くなりたいのなら、一番人に仕える人になりなさい」そう、あがめられる人ではなく・・・・・

 僕はヒーローは去っていくものと思っている。ヒーローは組織を作らない。スーパーマンも、スパイダーマンも影の人で自分の努力を誇示しない。ウルトラマンは最後には必殺技を出せるから戦いの後は飛び去る。感謝を要求しないし、お金を取らない。

 王家の王子であったブッダは、王子の位を嫌い、家を捨て、権力を嫌った。イエスは金持ちや偉そうに神を語る人を嫌い、その権力者側の人たちが相手にもしなかった、罪人や漁師、普通の人々に神の愛について語った。

 カウンセリングやセミナーで楽になったり、気づいたのなら、気づいた人が偉いのです。気づかせた先生や本が偉いのではない。なぜなら、どんな深い話でも、何も感じない人はいくらでもいる。

 いつも、僕は言う。気づきは、水の沸騰のようだと。水が沸騰するには、水の温度が100度の沸点に到達していないといけない。でも、実際には100度を過ぎても絶妙なバランスが取れていて、外観上、グラグラと沸騰している状態には見えない。

 沸点以上に達した水に、何かの刺激を加えると、水の内部も一気に沸騰し、水蒸気が吹き上がる。その刺激は、インスタントのラーメンの麺でもいい。それが刺激になりグラグラと沸騰する。

 でも、ただの水にラーメンの麺を入れても、刺激を加えても、水は沸騰しない。水が沸騰点に到達していないからである。

 学びも、どんないい話を聴いても、気づかない人は気づかないし、気づく人は、何かの刺激で気づくのです。学びもそうです。たとえ、江原啓之さんの話しであっても,瀬戸内寂聴さんの話しであっても、同じ話を聴いても、何も感じない人はいる。また、感じた人達はそれぞれの感じ方が違うはずです。

 話し手が大切なのではなくて、聴き手の準備が大事なのです。

 その気づく準備とは、人に傷ついたり、傷つけられたりしたこと。失敗したり、悲しい体験をすることも、自分を知る準備になります。

 僕も色々な講演会で話しをしますが、学校の子供たちに話をするのと、経験をつんだ大人に話をするのとでは、同じ僕の話しでも相手の経験によって気づく深さが違います。だから、話し手や、すばらしい本は刺激でしかないのです。

 メンタルの心理学セミナーの受講生は「もっと早く知ればよかった」と誰もが言います。でも、僕は「今だからヨカッタのだ」と心の中で思います。そして、講座後に受講生から「先生、ありがとうございます」と言われると、心の中では、気づけた「あなたに、ありがとう」と僕は言いたくなります。

 伝える側は、刺激なのです。本もセミナーも「ラーメンの麺」みたいなものです。チョっとしたキッカケなのです。

 今までのたくさんの刺激によって、今、気づけたのです。だから、どの先生が素晴らしいとは言えないし、だから、誰も「私があなた達を導いた」とは言えないはずです。

 お金を取り、感謝され、私が神だと言う人を、僕が一番を嫌うのは、そんなわけなのです。だって、あなたも「ラーメンの麺」でしょって。

 だから、真実は静かなのです。自然は最高の先生です。耳を澄まして、心の目で見ると、静かに、私たちにいろいろな知恵を与えてくれます。彼らは雄弁に、そして静かに語りながら、決して、教えてやると押し付けがましくもない。

 僕も機関銃のように講座で語りながら、自然のような静かさに、あこがれる今日この頃・・・・








背景画像を含めた印刷方法について