今は理性の時代。マスメディアでも、理屈や言葉の多い時代。
街の喧騒を離れて自然の中に入ると、言葉をどれだけ費やしても自然の美しさを表現することは難しい。
僕の自宅は生駒山の中腹にあり、その山上のスカイラインを信貴山に向かって走ると、紅葉が素晴らしい道があります。この美のグラデーションの深さを言葉で表現するのは難しい。
人は相手に何かを伝える時に言葉を使う。しかし、言語には、どうしても限界があります。赤は赤でも、うすい赤もあれば、濃い赤もあります。濃いといっても、人によって赤色の濃さのイメージは違います。ましてや、一枚の葉の中にある、色の濃淡を文章で伝えることは至難の技です。
言葉一つひとつのイメージは、それぞれの人によって違います。
メールに使われる(笑)と言う文字にも同じことが言えます。
なぜなら、笑いにも、バカにした(笑)もあるし、かわいいものを見たときのやさしい(笑)もありますし、緊張して、ひきつった(笑)もあります。くだらないことを言い争っているうちに、二人のお腹が同時に鳴って、ふと緊張がぬけてクスッと笑いあう平和な(笑)もあります。
(笑)という文字のニュアンスには、その時の気分で感じが違ってきます。心理テストなら、興味はありますが、メールなので使うには抵抗感があります。たぶん相手に解釈を任せる不親切なコミュニケーションだと感じているからでしょう。
だから、微妙な心を言葉で伝えること、感じのニュアンスをメールで伝えあうことには限界があるように思えます。その人の日々の表情や、人となりが伝わりにくいインターネットの出会いでは、こじれた時には、勝つか負けるかの戦いになる可能性を秘めています。
人は相手のためと言いながら、自分の考えを押し付けているだけに過ぎず、相手と対立してしまうことがあるからです。その時にこそ、理論ではなく、感じることが大切です。居心地の悪さ、雰囲気の険悪さ、淋しい感じの感覚は共有できるはず。同じように感じると思います。
人にとって、悲しいとか、悔しいとか、嬉しいとか、淋しいとかは、感じる世界です・・・・この感情すらも理解されないなら、夫婦でも、恋人同士でも、空虚さを感じます。心の通わないロボットと話しているような気分になるからです。
冬に外に出たときに、寒さを感じて「寒いですね」と言った時に、相手に冷静に「冬ですからね」とポーンと返事されると、なぜか淋しさを感じます。「ほんと、寒いですね」と共感されると、体は寒くても、心は温かい気持ちになります。相手の人が、こちらの気持ちを理解しようとする、こころを感じるからです。これが感情の共有です。
でも、相手が理論的に「寒いというのは、人によって違いますし、感じ方は別々ですから。そう思いません」と言われると、何か淋しさを感じる時があります。それでも、相手は論理的には間違ったことを言ってはいません。人は論理的に正しくても、心が共感しあえなければ、好きになれないことはいくらでもあります。それは、人間は雰囲気を感じる動物だからです。
部下に対していつも論理的に正しいことを言っているのに、嫌われる上司がいます。
「私の言っていることは理論的に正しいのに、どうして、部下は動かないのだ!」と怒りで不機嫌になってみても、「理動」という言葉はないのです。人をゆり動かすのは「感動」です。だから、嫌いな人に、どんな正しい理屈を言われても、部下の、こころが動かないのです。
だから、最初に、相手と心をかよわせるということから出会いを始めなければ、言葉は空を切ります。なぜなら、コミュニケーションは字を列記して、発音しているだけではないからです。
理屈は分かり合えなくとも、目で見ること、心で感じることは実感がともないます。「色づいた紅葉の木が、目の前に、たくさんあります」より「紅葉が、すごくキレイで涙が出た!」のほうが感動の深さが伝わる。食事をご馳走したときに「酸味が利いていて、食べやすいです」より、「むちゃくちゃ、うまい!」の方が、テレビの解説は別として、相手の感動が伝わってきます。
言葉で「大丈夫ですよ」と言われるより、黙って手を握られて「大丈夫よ」と言われた方が伝わることがあります。それは、生気をおびた相手のぬくもりがダイレクトに伝わるからです。
でも、電話やメールでは、このコミュニケーションのリアリティな感覚を伝えることが難しいのです。便利さは社会を豊かにすると同時に、失われていくものもあります。
車に乗ると人格が変わる人がいます。人はすごいパワーを身につけると、能力が無限大になったと錯覚します。だから、人間はすごいパワーを身につけると、身勝手になることがあるのです。車を運転している人の中には、前をゆっくり走っている車には、クラクションを鳴らし、他の車に追い越されると義憤にかられ抜きかえし、でも、自分が追い越す時は、急いでいるからと都合よく考えてしまいます。
さらに、狭い道で、車同士が対向した時には、そちらが、「下がれ」とケンカ腰になることもしばしばあります。もし、狭い道を、互いに歩いているなら「どうぞ、お先に」「いや、そちらこそどうぞ」とゆずり合うのが人の情けです。でも、便利さは一方で、この人の情けを見えなくしてしまいました。
今のような通信機器の発達や、素性を知られなくてよい社会では、感情が高ぶった状況下で、攻撃性を抑えるのは大変です。まして相手を見なくても殺せる殺人兵器の進歩は、際限なく戦いをエキサイティングなものに変えてしまいました。
メールなどでは、自分の信念や思考を、温もりを感じる距離で話し合うのではなく、無機質な画面を通じて伝え合うからです。
ある国には、ある国の正しさがあり、違う国には、違う国の正しさがある。それが戦争です。
言葉で互いの正しさをぶつけ合っても、そこに虚しさを感じます。
今の時代に必要なこと、それは言葉の正しさより、そこに漂う緊張感、悲しさ、淋しさ、不毛感を「感じる能力」を持つことです。泣いている子供達。どうしようもない家族の死に直面し、自分が始めたのではない理不尽な戦いに、天を見上げている人々・・・・そこには理論も、論拠の正しさもない。残酷さだけが心を打ちのめします。
人は勝つ戦いより、終わらせる戦いのほうが、勇気が必要です。勝とうとしている時、誰もみな心は緊張しています。そんな時に、勝つことではなく、その緊張から降りて、相手を理解する姿勢がこれほど難しいのは、世界の情勢を見ても明らかです。
その時に、理屈ではなく、心の中を感じることです。この緊張感は、お互いにとっても悲しいし、つらいから・・・・・
そうだ、「もう、やめよ!」「ね、仲良くしよう」「嫌な思いさせてゴメンね」幼い時に知った魔法の言葉。
この魔法の言葉のおかげで、心の中の緊張感がとけ、肩の力がぬけ、人を、そして僕たちの住んでいる世界を、どれだけ心から信じられたことか。誰でもその瞬間を知っているはず。もしも知らない人は始めて見るといい・・・・・・この勇気ある魔法の言葉を。
樹木が、次の世代を生かすため、その養分になるために、葉っぱを手放すように。僕達も自分の正しさを手放した時、新しく生まれる信頼関係がある。
『人生に必要な知恵は、すべて幼稚園の砂場で学んだ』(ロバート・フルガム)
人間が、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか、
本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。
人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。わたしはそこで何を学んだろうか。
何でもみんなで分け合うこと。
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。使ったものはもとのところに戻すこと。
散かしたら自分で後片づけをすること。
人のものに手を出さないこと。
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと。
食事の前には手を洗うこと。
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。
焼きたてのクッキーと冷たいミルクは体にいい。
釣り合いの取れた生活をすること・・・毎日、少し勉強し、少し考え、
少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして、少し働くこと。
毎日かならず昼寝をすること。
おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、
はなればなれにならないようにすること。
不思議だな、と思う気持ちを大切にすること。
もし、僕達が、誰とでも手をつなぎ、傷つけあわなければ、この世界から戦争はなくなるのに。
この社会の人々が釣り合いのとれた生活をしていれば、ノイローゼになる人も、自殺する人もいなくなるのに。
みんなで何でも分け合えば、この地球はいつまでもいつまでも青く輝きつづけるのに・・・・
僕達の周囲の小さなフィールドで始めませんか。
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