世界は、時より嘘つきだと思う。ある人には、この世ほど地獄のような世界はないと言わしめ、ある時には、こんなすばらしい世界はないと人に楽園を見せてくれる。同じ時間の中に、愛し合う人たちが居て、同じ時間の中に憎しみ合う人たちが存在する。また、同時に死もあり、誕生がある。
SFの世界に併行世界(パラレル・ワールド)という概念がある。
今、この瞬間にも、たくさんの多元世界があり、その違う世界では、僕は今とは違った人生を生きているのだという。
カウンセリング時にも不謹慎なのだけれど、違う世界に心が飛びさることがある。
ある人を許せないのだと話す。どうやって仕返しするかと日々考えているのだと彼は言う。彼の中には、恨みと憎しみがウズまいている。そのような、怒りに満ちた顔を見つめながら、この部屋の上には、広い青空が広がっていて、雲がゆっくりと、人の憎悪などとは無縁に、光をまといながら流れている。だから、僕は彼の憎悪の世界を離れて、心は大きな自然を追い求める。
インディアン居住地で、夕暮れの広大な大地をのぞみながら、この同じ時に、日本では、いつもと変わらない生活の時間が流れている。ただ僕が、そこにいない。そして、ここに居ることの不思議さを感じていた。
ニューヨークでテロがあった時でさえ、怒れるアメリカの中に居ても、テレビのない場所にいて、巨大な大地の上を、いつもと変わらず静かに流れる雲を、静かに風に吹かれながら眺めていた。その瞬間にも、時間は誰の上にも流れている。ある人には平和な時。ある人には憎悪。世界に幸せな時間だけしか存在しなくなればいいのに。戦いも、策略もない世界・・・・・
今日、ふと、テレビをつけて見ると、プロ野球のセリーグで阪神が首位だった。野球が好きな人には申し訳ないが、僕はこれといって野球に興味があるわけでもない。けれども、関西在住の僕としては、友人にも阪神ファンがたくさんいる。だから、阪神が勝てば嫌な気分はしない。しかし、僕の中では、阪神は後位をウロウロしているという世界があってイメージがある。だから、セリーグの順位表を見た時に、違う世界にトリップしたみたいで不思議だった。
明日は、久しぶりに休みだ。「ひとりごと」でも書こうと前向きな気分になっている時だったので、その明るい気分が、僕を違った明るい世界に、パラレル・ワールドに運んだのかと幸せな気分だった。でも、すぐに中国や韓国側からの日本への批判問題が、テレビで流れだした。やはり世界は変わっていないのだ。
人間はあまりにも現実が苦しくなると、空想へ逃避をしてしまうと心理学では言う。ふと目が覚めれば世界が、やさしい世界に変わってくれればいいのに。
近年、中国・韓国の日本との関係が冷えきっている。同じような生活様式を持ち、親近感を感じる国。アメリカで出会った彼らは僕達と何も変わらないのに・・・・どうして僕達は、こんなに対立しているのだろう。
それは、日本人の「死生観の違い」だという。
日本人の深層心理には、誰もが死ぬと、みな神様になると信じている。A級戦犯(戦争の指導者とされた人々)も、身近な家族のためと信じて戦った一兵士も、同じように、死ぬと、みな神様になる。この神さま達は、私達に何を教えてくれるのか?それは、過去のあやまちから僕達が学ぶこと。
歴史教育とは、人間の弱さや、愚かさを学び、そこから、豊かな未来を考えるということ。歴史とは、角度を変え、焦点のあて方を変えると、それぞれに違った感情を与えます。
日本から見ると、太平洋戦争は、西洋列強国からアジア諸国を守るための聖戦であった。しかし、支配され植民地化された中国や韓国からすれば、これは明らかに侵略なのです。
どの話をチョイスして子供に教えるのか。どの見方を子供に伝えるのか。それは馬鹿げた大人たちの身勝手な考えです。どちらの見方も、どちらの立場の違いも、両方を教えるのが歴史教育です。なぜなら、人間は立場が違えば、こんなにも自分の正しさのために戦争を起こすバカなところがあるのだと、未来を作る子供達に伝えることが教育なのです。
人間の愚かで、危険な一面を教えるのが教育です。人間の凶暴性を刺激するような、自分の国の正しさや憎しみを植付けるのは、正しい歴史教育とはいえません。
人間は間違いを犯すのです。ですから、死をとおして間違いを教えてくれた悲しい出来事から教わるのが歴史です。戦争で亡くなられた方々が、過去の教訓になるからこそ、死者は英霊となるのです。それが、日本人の本当の死生観です。
そう考えるなら、小泉首相が、靖国参拝を不戦の誓い(戦わないことの確認)で参拝するという気持ちも決しておかしくはないのでしょう。
でも、自分達の家族を殺された中国や韓国からすると、黒幕とされたA級戦犯も祀られている靖国神社に、日本の代表である首相が参拝すること、それに世論も黙認することは「日本人は、やはり戦い好きで好戦的だ!」と不安をつのらせるのです。
そのような誤解を解決するには、日本政府が外交に努力を重ね、他のアジアの人々を安心させることが必要です。そして、それは、冷静で真摯な態度のコミュニケーションで他国に伝えていくしかないのです。
しかし、「真実の正しさは、後に理解されるのだ」とか「諸外国が、日本の行事にとやかく言うのは内政干渉だ」と、コミュニケーションの省エネをはかる小泉首相。
もちろん、すぐに揚げ足をとるマスコミにも問題があるのです。それに怒って「海外から、国の方針に文句を言われるのは内政干渉でしょう」と、ふてぶてしく笑ってみせる小泉首相の態度。
この映像が、他の国にマスメディアにのって流れる時には、中国や韓国寄りのナレーションが入り、彼らの国民感情を逆なでしてしまう。今までの歴史をひも解くと、上手くいかない時には、不思議とすべてが裏目にでてしまう。第二次世界大戦前の日本も同じように、すべてが裏目に出た。歴史はくり返す・・・・こんな時こそ冷静な対応で、日本は世界に向けてのアピールが不可欠なのです。
アピールなき政治。自分達の考えを説明しない日本の広報のまずさ。それが、世界から見ると、アジアの大国にのぼりつめた日本の横暴さに映る。
こんな気持ちのすれ違いが、大きな決裂につながる時がある。相手への配慮のなさが誤解を生み、それが不信を植えつける。その不信感が、やがて大きな戦争へと燃え上がるというのが歴史の法則。それが、過去の歴史に見る教訓。
たくさんの死を、未来に生かすならば、死者の魂はむくわれる。死の意味を次の平和に生かしてこそ、悲しき死にも意味が生まれる。その意味を間違えると、新たな戦争のキッカケになってしまう。これでは本当に、戦没者の死は生かせない。靖国の英霊たちは今一番悲しんでいるのでしょう。自分達が、争いの原因になりはしないかと・・・・・・
すべてが悪い方に動いてしまう悪循環は、それは雪崩れのように世界を暗黒に変えてしまう。それは、突然に平和な国に襲いかかる。そんな、危機感をヒシヒシと感じてしまう今日この頃です。
日本人が日々の生活だけにとらわれている間に、悪循環のスピードが早すぎて、脱線しかねない。あまりにもスピードが速いと、どこのカーブから脱線が始まったのかが簡単には判断できないものです。
今こそ、60年前の戦争の意味。戦没者の呼びかけた声に耳を傾けなければなりません。
最近、私の周囲に死について考えさせられることが重なってありました。「必要なことは必要な時に起こる」とインディアンの人は言います。ユングは「偶然に起こる事の中に意味ある必然が隠れている」といいました。これは「意味ある偶然」(シンクロニシティ)と言います。
私が、尊敬し、心から愛している義父(妻の父)に、食道ガンが見つかりました。
義父は真面目で、やさしい人で、イイおじいちゃんで、僕自身もこんな良い人は会ったことがないと、思えるほど正直な人です。しっかり定年まで家族のために働き、定年後には、ビルの掃除をしていて、他の掃除仲間から「もう少し手を抜いてくれ」と言われるくらい手を抜けない人・・・・若いときから働いていた会社からは、都合よく定年前にリストラされたのにも関わらず。先代の社長さんが亡くなった後も、自宅に社長さんの遺影を飾って、花を手向け、
その墓掃除も毎年欠かさず、昔「仕事のイロハを教えていただいたから・・・」と静かに語る人です。
そんな中、ある生徒に「私の友人が数日前に自殺しました。その友人は天国に行けないのですか?」と泣かれました。正直言うと、ショックでした。僕の仕事の恐ろしさです。人によかれと話した話が、ある時は誰かを助け、ある瞬間に誰かを苦しめることになります。
僕が話の中で、僕の息子が一歳の時に、小児ガンに侵された話をします。今は彼も元気になって中学校に通っています。
その息子が入院していた京都府立医大の小児ガン病棟でのことです。その時に、大人になれないまま亡くなってゆく子供たちにたくさん出会いました。
ある子は、「僕は大人になりたい」と泣きながら亡くなりました。とても、やさしく聡明な子供でした。その少年の話をさせていただくのは、講演に参加された人々に、「ただ生きたい」「ただ大人になりたい」という、そんな普通に叶う望みですら、叶うことなく亡くなっていった子供達がいること。今日も僕達は、その夢なかばで亡くなっていった子供達の「夢の世界」で生きているということ・・・・今日が退屈な一日であったとしたなら、
その退屈な一日を心から望んだ子供たちが、この世界に存在したということを憶えていてほしいから・・・・・
この話しを語る時に必ず伝える話があります。それは、当時、僕は幼くして亡くなってゆく子供たちに対して、自分なりに納得がいく答えが欲しかった。そんな時、自分で何とか自分を一時的にでも納得させることができたのは、宗教観の中にある「逆転の発想」でした。
僕達は長寿を祝います。誰もが長生きすることが素晴らしいと考えます。しかし、宗教には、この世は修行場であるという逆の発想もあります。この世は修行場で、煩悩(苦しみ・執着・嫉みetc.)の世界であるというのです。この煩悩の世界で、善行を積み、心を磨いていると、涅槃というところにたどりつき、もう二度と、この「煩悩の世界」に生まれなくてよいという考えです。
そう考えるなら、亡くなっていく子供達は修行が終わったのだと思えたのです。キリスト教でも、僕達は原罪の中で生きていると言います。誰もが罪を背負っているのです。生きることは誰かを傷つけ、何かの命をいただいて生きているのですから、生きることは罪人で生きることなのかもしれません。キリスト教では、この世界は罪の幕屋だそうです。そう考えるのなら、生きていることは、やはり刑期なのかもしれないと思ったのです。
だから、幼くして亡くなっていく子供達は、刑期が終わったのだ。そのような考えは一時的にでも僕を楽にしてくれました。
だから、子供が亡くなった同室の親に、「死んだ子供と同じ世界に行きたいのであれば、僕達は、苦しくても最後まで、生きないといけない。なぜなら、あの子は刑期が終わったから呼ばれたんだ。だから、僕達も定められた刑期を終わらせて、釈放された者が集うところに行こう。呼ばれてもいないのに、あの子の後を、自殺でもして追うと、同じところに行けないような気がする。だから、生き抜こう。この悲しみの世界を・・・・・」と話すと、少しでも、子供に死なれた親は自殺を踏みとどまってくれました。
今でも不幸なニュースを見るたびに、そのような考えが、自分のどうしようもない怒りや憤りを抑えてくれます。刑期が終わったんだと・・・・・・考えて。
この話は子供を亡くした親には、少しは救いになりました。でも、身近な人を自殺で亡くしてしまった人には、僕の心ならずも、その人たちを傷つけていたのです。100人いれば100通りの感じ方、立場があるということは、伝える側が一番気をつけないといけないこと。それを指導している自分自身が、友人に自殺され、悲しみの中で涙を流している彼女から突きつけられたのです。
僕は友達を自殺で亡くして、苦しむ彼女にこう伝えました。
「死」は、死んだ人自身を、もう苦しめはしないと思う。「死」は生きている者たちへの意味のあるメッセージなのだと・・・・僕が小児ガン病棟で、出会った亡くなった子供の話をすることも、自殺した義母の話をすることも、その死を、今、一生懸命に生きている人の生活に生かしてもらいたいから。死は、生者に、神さまが与えたメッセージなのだと。
命は終わらない。インディアンはそう言った。人の命の物語(ストーリー)は、誰かの命を生かす(活かす)のだと・・・・。
「僕、大人になりたい」と言って亡くなった子供達のメッセージを、多くの「何かつまらない」と日常に肩ひじをついて生きている大人達に、「そうだ、自分自身は、大人になれないまま亡くなっていった子供の、夢の世界で今日も生きているのだ。だから腐っちゃいけない。笑って彼らの夢見た大人としての今日をしっかり生きないといけない」と勇気を与えることもあるのだと・・・・私の義母のように、自分が産んだ子供ではない息子を愛した女性の努力は、一人のカウンセラーを世に送り込んだのだと・・・・
誰かの命の物語は、今でも誰かに元気を与えている。肉体はなくても、誰かに生きるエネルギーを与えるなら、これは生きている人以上に、彼らは生きていると・・・・・・少なくとも、僕の心の中に。
僕が義母の自殺を語るのも、義母の自殺を経験して、僕を心の世界に導いてくれたのが真実だから。
大切なことは、死を、僕達がどのように生かしてゆくかということ・・・・そうすれば、死に方はどうでも、その死には意味が存在した。死を生かすことが、生きている人々の宿題なのです。そうすれば、いつか、きっとどこかで懐かしい誰かに会えると、僕はしっかり信じている。それが、どんな死に方であっても。
故人の遠藤周作氏が、アウシュビッツに行った時、たくさんの子供をガス室で殺した兵士が、その数時間後に音楽会でモーツアルトを聴いて感動して涙をながしていたという資料を見て、三日間くらいは人間に対する嫌悪から、食事がノドを通らなかったそうだ。
日本に帰って来て、知り合いの神父さんに「そういう極悪人も救われるのですか?」と、救われるわけがないと思って訊ねたとそうだ。そうすると、その神父さんは、その男が息を引きとる瞬間に、「自分は悪かった」と心から罪を悔いたとするなら、それは誰にもわからない。人が、救われるとか、救われないとか、人生の全般を、誰が判定できるのですか?と言われたそうです。
ビックリした周作さんは「神の愛とは、そんなに深いのですか」と訊ねた。「そうです」と神父は答えた。納得できない周作さんは、殺された子供達の身になって、「殺した者と、殺された子供が同じように救われるなら、あんまりじゃないか」と考え、神父の意見に憤ったが、一方で彼は、殺された子供達が、自分を殺したヒットラーやアウシュビッツの大人たちを「神様、どうか、あの大人たちを、許してあげてください」という、やさしい世界があったなら、それは「神の国」だと思ったそうです。
遠藤周作氏は語りました。神は人間の外にあるのではなく、自分の内にあると。今まで長い歴史の中で、神は自分の外にあるものとして、人間がそれを仰ぎ見るという感じでいたが、そうではなくて、神は自分の中にもある大きな生命だと。そして、死によって人間は、その大きな生命の中に混ざりあい戻ってゆく。それを「復活」と言う。つまり復活は蘇生ではなく、突然、息を吹き替えすことでもなく、大きな永遠の生命の法則の中に戻って行くことではないのかと、彼は言いました。
キュープラ・ロスの研究した臨死経験した人々の話しの中にも、懐かしい人々に会えるという事例が多く存在します。大きな光の体験も、小さな光(命)が戻るところは、巨大な命の光なのかもしれません。その巨大な命が神さまなのかもしれません。僕はそんなことを考えています。
インディアンも、彼らは大地の上で死にたいと言います。それは、生きているうちは、母なる大地からたくさんの命をいただいた。だから、死んだら自分は大地に戻って行く。そして、自分の身体の栄養分で、大地を豊かにして、その大地の上で、次の世代の孫たちが花をつみ、自分の上で走り回るのだと。幼い彼らを生かすために大地に戻りたいと・・・・・
大地は、我々の祖父の身体で豊かなのだ、川は、我々の祖母の身体で美しく、優しいのだと・・・・・・
「シアトル首長の言葉」より
子供たちよ、もしもおまえが、枯れ葉は、何の役に立つの?と聞いたなら、私は答えるだろう、枯れ葉は病んだ土を肥やすのだ。お前は聞く、冬はなぜ必要なの?すると私は答えるだろう、新しい芽を生み出すためさ。死は終わりではなく、新しい命を生かすのさと・・・・
「今日は死ぬにはもってこいの日」より
アメリカに禅を紹介した、アラン・ワッツが語る子供へのおとぎ話を紹介しましょう。
神様はかくれんぼをするのが好きだ。でも、神様の他には、誰もこの世には存在しないから、自分自身としか遊べない。だから、神様はかくれんぼする時には、君や私や、世界のあらゆる人々、あらゆる動物やあらゆる植物、あらゆる岩、あらゆる星になったふりをする。そうやって、簡単にゲームが終わらないように、神様は楽しんでいるのさ。
どうして、神様は、ときどきこわーい人たちのかっこうで隠れたり、ひどい病気や痛みに苦しむ人たちのふりをするんだろう。と君は訊くかもしれないね。実を言うと、彼はそういうことを自分にしているのであって、他の誰かにしているわけじゃない、と言うことをまず、覚えておかなければならない。
それから、君が楽しめるほとんどの全部のお話には、良い人たちと同じくらいに、悪い人たちが出てこなくちゃいけない。なぜなら、それは、物語のスリルというのは、良い人たちが、どうやって悪い人たちを正してゆくのかを見つけ出すことにあるからなのさ。
神様は隠れるときには、君や私のふりをするときに、すごくうまくやるから、自分がどこに、どうやって最初に隠れたかを思い出すのに長い時間がかかる。でも、そこがおもしろいところなんだ。神様はそれをやりたかったのさ。だって、簡単にかくれんぼが見つかれば、遊びがすべてだいなしになるからね。
私たちは変装して自分が自分でないふりをしている神さまだということに気づくのが、君や私にとってこんなにもむずかしいのはそのためなんだよ。でも、この遊びがうんと長くつづいたなら、やがて私たちはみんな目を覚まして、もうふりをするのをやめるだろう。
私たちは、ただひとつの<自己>なんだと気づくからね。そう、そこにあるすべての物である神さま、いつまでも生きつづける、あの神さまなんだと言うことを思い出すんだ。
<タブーの書より>
そして、亡くなった、マザーテレサは言う。
どうしてあなたは、そんなに多くの人を救えるのですか?と訊ねられ、
「私は決して、多くの人を救っているのではありません。ただ、お一人の方を救いたいのです。」
それは、どういうことですか?
「私がお救いしたいのは、姿を変えたイエス様ただ一人なのです。イエス様は、姿を変えて、私の前に現れています。ある時は、手のない人。ある時は、重病人。ある時は、私の看病をこばむ人。時には飢えで苦しんでいる人。イエス様は私を試しているのです。イエス様は姿を変えて、私の心のドアをノックします。その心のドアを開けるか、開けないかをいつも見ておられるのですよ・・・・」
このように、先人の意見を探っても、死は、生きる者へのメッセージです。これから生きる者たちへの道しるべだと思います。それを無駄にしてはいけない。今こそ、我々、日本人は、死の意味を深く考え、原爆や空襲を知る国として、世界に向けて語るべき役割があります。
死の持つ恐ろしい怒りを越え、日本人が世界に伝えるべきメッセージが、今、必要なのです。
僕達の目指す、やさしい世界が、この瞬間にも、どこかの世界に併行して在って、そこに自分が今住んでいたら・・・・と思う時がある。もちろん、これはスターウォーズよりも、夢のあるSFだけれど。でも、みんなが想像できるなら、きっと僕達には今、この瞬間に隠された幸せの世界へとワープする。
現代の量子物理学では、今見えている世界は、僕達が見たいような世界が見えているという。
そうならば、明日、僕達は幸せな世界にいるのかもしれない。先人達の「死」の歴史を生かしている豊かなステキな世界。
近隣のアジアの人々、いや、世界の人々と、国境を越え、民族を越え、笑いあっている世界へ・・・・・
あのジョン・レノンの「イマジン」の歌のように。 注:直訳ではありません。
想像してごらん 天国も地獄もなくて、空の下には
今日を一生懸命に生きる人の笑顔があって 想像してごらん
人を殺したり、自分の命をささげるための戦争にいく大儀もない世界を
人を苦しめ、怖がらせる間違った宗教もなく それでも、人は平和で安心して暮らしている世界を
君にも想像できるはずさ 僕のことを、夢見る夢想家と君は言うかもしれない
でも、こんなことを願っているの、僕だけじゃない
いつか、君にも見えれば、その世界が。その中で君と生きてゆければ
そうすれば、世界は一つになって、みな安心して生きてゆけるのさ
想像してごらん
誰もが持っていて、持たない人のいない かたよらない世界を
飽くことのない欲に振りまわされないで、飢える人もいない世界 みなが一つの家族のようになることを
君にも想像ができるよ みんながすべてに満たされている世界を
<東芝EMI>
でも、僕達はイメージするだけではいけない。世界を変えたければ、自分のいる小さな世界を変えなければならない。なぜなら、世界は僕達の住む、小さな世界を拡大する鏡のようなものだから。
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