心の仕事をしていると、自分を愛せない人と出会うことがある。
「自分が誰かから愛されなかったから、自分という存在に確信が持てないでいる」のだ。でも、それらは自分を愛してくれなかった人たちの物の見方を、そっくりそのまま自分自身に取り込んでいるだけなのです。それでは受売りです。そんなに誰かの感じ方を自分に取り込まなくてもいいのに。だって、それは嫌いな誰かの猿マネだから。
愛情の反対は、憎しみではない。愛情の反対は、忘れることだ。
誰かを怨んで生きている人がいる。裏切った恋人を憎んでいる人がいる。愛してくれなかった過去の親のために、自分の今の人生をボウに振っている人々がいる。
ある人を「憎い」と思うのと、その人が「大好き」と思うのは、頭の中では「その人のことで頭が一杯」に占領されているわけですから、愛情も憎しみも同じ強い感情の仲間です。プラスとマイナスの違いはありますが・・・・・・・そんなに嫌なら頭から追い出せばいいのに、憎しみという心で、その大嫌いな人と、頭の中で付き合いをしている。
では愛情の裏返しとは、それは「忘れる」と言うこと。その怒りのパワーを、プラスのエナジーに換えること。
挫折感や失敗を、次のステップアップのバネに替える。それを心理学では「昇華」と呼びます。愛されなかった事実を数え上げるより、愛のない生活から学んだ愛情の大切さを、人に教え、伝え、誰かにしてあげることは自由なのです。そんな生き方も、自分の選択肢として存在するのだと思えば、その瞬間に心は自由になります。憎しみという束縛から人は解放されます。
僕らの時代は自由な時代です。でも、身体を拘束されない自由(Liberty)はありますが、心すこやかな自由(Freedom)を持っているのでしょうか。
過去に縛られて苦しんでいる人を見るたびに、そう思います。
人生は一度。
今もこの瞬間も、大切な時間が、手から砂が落ちてゆくように過ぎ去ってゆく。その大切な人生を、過去の憎しみや恨みに時間を費やすなんて。もったいない。
「夫が自分を愛してくれないから、私は不幸で笑えない」という奥さんがいます。愛してくれない夫を恨んで、自分が鬼のような顔でいるよりも、自分がその人を勝手に愛する自由は、まだ残っているのです。どんな状況下でも、自分の人生を笑顔で飾れる自由はあるのです。もし、それがバカらしいと言うなら、新しい人生を一歩踏みだす自由もあります。
恋は盲目といいますが、盲目になっている自分に気づいた時に、人は、盲目の自分を楽しめる自由もあるのです。どちらにしても、笑っている人にしか幸せは訪れません。
僕も、両親が離婚をして、家庭には、決して恵まれているとは言えなかったけれど、そのぶん家庭を持った時、子供が生まれた時、とても幸せに感じたのを、今でも鮮明に憶えている。
以下は、僕が自分の息子宛に書いた手紙です。
僕は今でもこの手紙をある所に隠している。彼が成人したか、結婚したか、子供を持ったら渡すために。僕はきっと、自分の父親にそう言ってもらいたかったのだと思う。
言ってもらえない何かを数え上げるよりも、自分が言ってほしかったことを、誰かに伝える。僕たちには、そんな自由もあるのです。憎しみの裏返しは、忘れることではない。憎しみの裏返しは、それを、愛に換えることなのだ。
僕は欲しかった何かを、今でも誰かに手渡すことで、この世を楽園にかえてゆきたい。
戦いよりも、笑顔を。
失うことよりも、得られたことを喜ぶ強さを。
憎しみを数え上げることよりも、自分をデザインしてゆける喜びを。
他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけだから。
未来は自分たちの手のひらのなかに・・・・・・・たしかに、存在するのだから・・・・・
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