生きるというリレー | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■生きるというリレー
2005年5月5日






 サクラの季節が終わり、新緑がより色濃く、生命の輝きを周りに放っている。落語にもインパクトのあるまくら話があり、人を話しに惹きつけさせるが、同じように、サクラの艶やかな存在感と散り際の潔さは、人の心を自然に注目させるパワーがある。この美しい新緑も、どれほどの歳月を毎年いろどってきたのだろう。歴史の中で変わらない自然の景色。

 毎年、変わることのない自然の営みの中に、見えない「生」と「死」が隠れている。

 葉が落ちて、次の世代の養分になる。そして、とてもよく似た世界をつくる。今は年老いた、僕の祖母にも燃えるような出会いがあり、恋心を傾けて思う乙女の時代があったのだろうし、その前の世代の人々にも、同じように燃えるような日々が存在していたに違いない。それぞれの、かけがえのないドラマを自然はいろどってきたのだろう・・・・

 時代は変わっても、人の心の華やぎは変わらない。どの時代の諸先輩よりも、自分は熱く生きているのか?くだらない小さな出来事に、心をとらわれていないか?
 いつも自問してみる・・・・自分は、昔の人よりも熱く、華やいで生きているか?

 だからこそ、どの時代にも美しい背景となる、美しい自然を残しておきたい。次の時代に、艶やかな恋をするであろう子供たちのために。そのときの演出には、同じような景色がなければならないから。

 やさしい夕日、雨の上がった土の香り、自然の色の奥深さを知る、さまざまな緑の色。その色を演出する光の木洩れ日。自然からの便りのやさしい風、見えない風を感じさせる空の雲、そして、どこまでも、どこまでも続く青い空・・・・・・

 いつか自分も土になろう。自然にもどろう。次の彼らの人生を演出するために。

 自然を見た時の感動や、やさしい気持ちは、過去多く消えていったであろう数々のドラマと折り重なっているから。

 決して、僕たちの生きている世界は、単純で平面な世界ではなく、幾重にも折り重なった、奥深い世界なのだ。そのような奥深く重なり合った世界を感じる心を持ちたいと思う。

 僕たちの今日の命も、死によって成り立っている。私たちの体の中では、短いサイクルで「生」と「死」がくり返される。古い細胞は死に、そして、新しい細胞が生まれる。

 だから、我々は、いつも新しい自分で今日を生きている。しかし、外から見ると、昨日と今日では変わらなく見えるし、何も失っていないように見える。過去の自分と“さよなら”しながら、新しい自分に“出会って”いく。

 失われる命の悲しみが、生きていることの喜びと感謝をもたらすことがある。亡くなった命が、生きている奇跡を感じさせるから・・・・・・悲しい出来事は,ただ無感動で生きている人々に反省をうながさせ、今日も生きられている喜びを、日常の中に引き寄せる。

 すべての出会いにも意味があり、去って行く存在にも役割がある。意味のないことなど何もありはしない・・・・ただ、心の敏感さを、僕たちが鈍らさなければ・・・・・・

 死を生かさなければ、死はただ悲しみと怒りを生み出す。悲しみから何を僕たちが学ぶのか。そして、それをどう生かしていくのかが、生きている者たちの使命なのだと思う。今いろんな問題が、重複して折り重なっている。悲しい事件から戦争まで・・・・・・

 戦争から学んだこと、それは戦いや怒りによる問題解決はなんら未来の社会のためにならない、ということ。怒りの増殖は何も生み出しはしない、戦いによる平和への希求を私たちは永久に放棄する・・・・・・

 命を生かす。それは、ただ生きているだけではなく、心を進化させなければならない。失った命を生かす。それを僕たちは忘れてはならないと思う。

 青々とした、深い緑の中に、大きなたくさんの死の役割がある。自然が、美しくもせつないのは命のバトンが受け渡されたから。春から初夏にかけてのこの時節は、そんなことを考えさせられる季節でもある。

 今の時代、自然の知恵を学ぶことが何よりも大事なことなのだと思う。

 そして、今「生きている」ことに、みなぎるほどの喜びを感じることが大切なのだと思う。それは失われた命も望んでいるから。なぜなら、その喜びは失われた命が、かつては体験した感動であり、“生きている”というその充実した心の中に、彼らは今でもそこに存在している。そこが彼らのふる里だから・・・・・・

 今この瞬間を、生きれなかった人々のためにも、今日も僕たちは笑い、生きていることに感動せねばならない。

 彼らから、バトンを渡された者として、彼らの命の代表選手として。







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