スローなセミナーにしてくれ。 | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと

■スローなセミナーにしてくれ。
2005年2月22日





 ある出版社から、「講座の内容をビデオにしてみてはいかがですか?」と持ちかけられた。その人いわく「キャンセル待ちのでる講座だし、東京、名古屋、大阪、福岡でしか受講できない・・・なにより活字(本)離れの時代ですから、きっと多くの人に喜んでもらえる・・・それに笑いのブームですから????」最後の意味は理解できなかったが、確かに、「そうかなぁ」と心が動いた。しかし結果は丁重にお断りした。
 なぜなら、講座はライブが一番と思っている。それに、講座の臨場感や笑い、涙はいつも違うのだ。

 教室が、少しずつ居心地のよい空間に変わってゆく、その感動が僕としてはたまらない。講座は生き物のようだ。数年で内容が変化する。いや毎回ごとに変化し洗練される。再受講生の多さがそれを物語っている。その進化し続ける内容を、この瞬間だけ切り取って、これがメンタルのプログラムだと、永久にイメージが固定されるのは悲しい。

 何より、ライブの感動を、自宅のソファーで、せんべい片手に見られたくはないのだ。

 今はスロー・カルチャーの時代。
 昔、食べた地方の一品を、自宅で食する時の違和感に似ている。そこには、何か重要な味の要素が欠落している。味覚は他の感覚の相乗効果によって引き出される。舌にある「味覚」という感覚だけでは味わえないものがある。旬の季節に、その場所にゆき、その店で食べる。五感をフルに生かして味わえる。それが最高のかくし味。冷凍パックで送られたものを、見慣れた食卓、いつもの食器で食べても、何かが違うのだ。

 講座そのものも、その場所に行って、仲間と出会い、少しの緊張感からゆるやかに始まり、ジェットコースターのように、たたみかけるように気づきが訪れ、自分自身の思い出が走馬灯のようによみがえる。ふと何か大切なことを発見し、気づいたように思う。

 「気づき」とは自分の中にあった大切な何かを思い出す作業なのだ。

 英語のRemember(思い出す)は、自分の中にあった仲間(Member)が(Re)再び出会うこと。
 また、メンバー(Member)の語源はラテン語で、自分の身体の一部のことです。今、起こっていることと、何度もくり返される出来事の中に、身体の五感を総動員して、始めて《真の自分》に気づくのです。

 人はたくさんの思い出の中で、今の自分が作られています。だから、何か新しいことを外部の何か(講座や本や講師)から、教わることは何一つもありません。
 「わたしたちの中に真実はある!」その本当で、大切な答えが、日々の忙しい生活の中で埋もれているのです。それを思い出す作業です。

 このような考えをギリシア時代に、ソクラテスが想起論で教えています。まさに気づきや学びは“想いを起こす”作業なのです。忘れていたものを意識の上に引き上げるのです。それが教育です。教育(Education)の語源はDucare「引き出す」です。

 講座での「気づき」も、教室や食事会の中での仲間とのふれあいで起こります。それは自分自身のココロを観る時間です。

 全世界にあるマクドナルドのハンバーガーは<ファースト・フード>です。アメリカでも、ドイツでも、日本でも同じものでなくてはなりません。しかし、<スロー・フード>を味わうには、積極的な行動と、時を待つことが必要となります。

 今は、スピードの時代で、合理的で、便利さが何より優先されます。新幹線は、やがてリニアモーターカーに変わり、より時間は短縮され、目的地に正確に到着するでしょう。時間をかけて旅をした頃と違い、道の旅程にある偶然の出会いや感動すらも忘れ去るように高速で瞬時に走り抜けてゆく・・・・

 科学技術の社会は、我慢や忍耐という言葉を破壊しながら便利な社会を創っているのです。科学的な環境の中で、すべてをワンタッチで操作できる現代人は「この世の中は、すべて思うようになる」というナルシステックな神格化だけを養います。だから、人生の思うようにならない現実に出会うとすぐに耐えられないし、 自分以外の人間でさえ思いどおりになるものだと強く信じている。まわりを思いどおりにしようとして権力闘争に明けくれ、人生や他人に対する不信感から、人を思いどおりに従わせる支配欲だけを際限なく肥大させているのです。

 車に乗るとよく、性格が変わる人がいます。自分が持っている以上の能力を手に入れると、人は横暴になるようです。抜かれたら抜き返し、割り込みには頑固なまでに入れません。歩いているとそんなことはなくても、スゴイ馬力の車に乗り込むと我がままさが助長されるのです。ただし、その車が故障すると、鉄のかたまりの前で途方にくれます。
 なぜなら、運転していた人の能力がスゴイのではなく、車そのものの能力がスゴイからです。人間はそれを操縦しているだけだからです。

 幼い子供は、両親に「あれを取って」「ミルクを入れて」「これ開けて」と命令します。ですから、幼い子供は、まわりの大人たちが、何でも望みをかなえてくれるので「自分はスゴイ」「何でもできる」と錯覚を持ちます。自分の能力を伸ばすより、大人をいかにコントロールするかを習得するのです。泣いたり、すねたり、金切り声をあげて、親を操作するのです。

 ですから、子どもの深層心理は、わがままな暴君になりやすくなります。幼い子供は大人たちを自分の望むようにコントロールしては、自分は何でもできる全能の神のように錯覚を持ちます。これをフロイトは全能感と呼びました。人が成長するということは、大人になる過程で、自分の能力の限界を知り、自分自身で能力を高めるよう努力をすることです。自分自身は、 お父さんのように力は強くはないし、お母さんのように、うまくコップにミルクを注ぐことはできない。現実を客観的に直視するのです。

 「身の程を知る」と言うのは大人の心理的な条件です。
 成長するというのは自分の限界を知り、その足らない部分を、みずからの努力で補う。それでも、完璧でない不完全な、わが身を支えてもらっているだろう誰かに、素直に感謝する気持ちを持つことです。これが、お陰さま意識の芽生えです。社会の中で生かされ、見えない何かの縁で、自分は存在しているということを認めるのです。これが成熟した人間の姿です。 そこに身の程をしらない子供のような甘えの心理はありません。

 あるツッパリ学生が言います。「俺は一人で生きてんだ!」
でも、彼はわかっている。このカウンセリングの後には、親が迎えに来ることを・・・・・カウンセリングしている僕も知っている。そのツッパリ君が、今日も親の家に帰り、親が作った料理を何くわぬ顔で食べることを。甘えの上に成りたった、わがまま坊やなのだ。

 そんな時、自分の学生時代を思い出す。決して優等生ではなかったが、人に嫌われるバカなことはしなかった。両親が離婚して、戦争未亡人だった祖母の新しい家族に、妹とお世話になったこと。年下の義理のイトコ達に、兄妹で気をつかって生活をしていた日々。何かあると「あんたたち兄妹は・・・」と自分たち兄妹だけは共同責任で注意されていた。
 僕のしでかしたミスで、どうして妹も責められるのかと、悔しがったこともあった。

 ある時は「頼むから母屋に迷惑をかけないでくれ・・・」と祖母から頼まれたこと・・・反抗期、完全にツッパリ悪ぶったら、身寄りのない兄妹はその日から泊まるところがない、食事や援助を失うかもしれないことを、心の片隅では知っていた。

 社会に出て、大人になった義理のイトコが「お兄ちゃん、昔はゴメンね。僕、おにいちゃんに甘えて、偉そうなことを言っていて・・・」と謝られたことがある。「そんなことあったけ」ととぼける。大人になった者同士の、大人の会話・・・・・イトコの成長が誇らしかった、あの日。

 カウンセリングでツッパッた彼を見ていると、そんな悪びれた態度をとっても、迎えてくれる家がある。自分のこと以上に気がかかりで眠れない母がいる。
 お母さん、「この子、捨てますか。今日から。一人で生きられるそうですから」と・・・その母親が出来そうにもない残酷なことを言いたくなる。そんな気持ちをグッと飲み込みながらカウンセリングを続ける。

 大人になるということは、自分ひとりでは何もできない。だから、人にも頭を下げる。
 目をスゴませても、大人ぶっても、彼は幼いのだ。君な、その態度で、他人の家に行って「俺と妹の食事くわせろよ!」と言って誰が食事を出してくれるのかな?
 社会をにらみつけて「俺と妹を今日泊まらせろよ!」とツッパッて、スゴんでみなよ。君、その場で門前払いだよ・・・・甘えの上に、生きているツッパッテいる君。ハッキリ言おうか。大人になるってことは、自分と愛する人のために、社会に頭を下げられることなんだよ。上司に頭下げて、黙って家族を守ってきた君の父親のほうが、よっぽど強いってことを!

 誰かをにらみつける目よりも、笑顔で人に接して少しでも愛される、社会の中で誰からも愛される能力をみがくこと、それが、生きることにシッカリ、ツッパルってことじゃないのかい。甘えられる環境の中でツッパっていて、退いてはいけない人生の正念場で腰くだけの若者よ・・・・・・どうだい、ほんとうに生きることにツッパッテみなよ。

 若い受講生が「俺、人に頭下げたくないから経営者になりたいんですよ」「人に使われないくらいにビッグになる」とよく言う。それが、男としてカッコいいと思っている。一度も頭を下げないで成功した経営者を僕は知らない。たとえ、一時的に成功しても成者必衰・・・・おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し・・・かならず、落ちぶれる。それが世のならい。

 今まで「誰にも頭を下げずにすんできたくらい、君は甘えた環境で生きてきたんだろ」と心の中でつぶやきながら、彼らのビックな話を目を細めて聞いている。なぜなら、意味なく会話の最中に、若者に説教するくらい野暮な大人にもなりたくない。怒らないといけないことは世界中には別にある。

 だから、本当の「大人」は怖いのだよ・・・・・今にして自分自身をふりかえる。今までの若気の至りの数々を、ニコニコ笑いながら聞いてくれた人生の先輩たちを思い出しては僕は赤面する。

 今年も成人式の会場で、成人した若者が、親に着せてもらった衣装を着こんで、大人になることの豊富と聞かれ、我先にテレビの前で、口とがらせて「楽して金もうけだよ」「ビッグになること」と答える。

 僕自身も裸の王様になりやすい。部下の助けで、移動のキップの手配、スケジュール調整が成り立っている。「ノドが乾いたなぁ」とつぶやけば、誰かが販売機に走ってくれる。「資料が必要だなぁ」と言えば、誰かが調べてくれることは日常だ。立場が上になると身につくのは甘えと、部下に頼って肥大し続ける幼児性なのだ。
 だから、「感謝のこころ」はいつも忘れてはいけないと思う。それが「大人」と「子ども」の境界線だから。

 彼らの言う「ビッグ」になると言うのは自分でしなければならないメンドクサイことを、すべてお金や、権力で、人に頼って、してもらう立場になることだと思う。確かに、多くの成功者は、自分では何もできないのに偉そうにしている子どものような暴君が多い。
 子供は、親が自分の世話をしてくれて当たり前。いちいち親に感謝はいらない。上司も心理的に子供だと部下に感謝はしない。

 多くの職場で権威ある人々は、自分ではスケジュール調整もできない。自分で航空券の手配もできない。何よりも、怖いのは、そんな中で長い間ドップリ浸って生活をしていると、その日々が当たり前の中に埋没してしまい「ありがたい」とか「おかげさま意識」を日常の中で忘れてしまうことがある。

 だから、自分の能力を確認したくて、僕は未開の地に行きたくなる。自分の立場が消えうせる場所では、自分の能力が問われる。旅人になると「ノドが乾いたなぁ」と言っても、自分で何とかするしかないのだから。状況によっては、みんなの分を用意しなければならないこともある。

 組織も、立場もない世界では、<真なる自分>と対面する。旅に出ると、自分の能力と判断力が試される。そんな中に身をおいて過ごしていると、自分もまだまだ捨てたものじゃないと自信を取り戻す。または、途方にくれ落ち込む時もある。それが、最高に自分を好きになる方法だとも思う。

 大人になるとは自立すること。でも、それは人に頼らないことではない。なぜなら、人を頼らないで生きるのは不可能だからだ。家族や仲間のように当然のごとく愛してくれる人たちに認められることも大切だけれど、一期一会で、旅人でも、見ず知らずの他人からも、短い時間で愛される能力がないと人間の真なる魅力にはならない。

 人間の魅力とは社会的立場がありながらも、どんな状況下でも愛されて生きてゆける能力を高めること。もちろん、これは若さや体力のようなものではない。それは年を重ねるほどに周囲から好感をもたれる「人間の真なる魅力」のこと。

 その人間の魅力を高めるためには、若い時からの考え方が大切だと思う。

 部下の中にも「俺の上司は無能だからさ!」そうやって、いつも上司をブツブツと責めている人がいる。そのようなグチっぽい人は、自分が上司になれば部下からグチられるダメ上司になる。グチっても現状は変わらない。「ダメならダメで、自分が部下についたからには自分のサポートで、彼を有能な上司に見せてやる。自分がその上司を作り変えてやる。」そのような前向きな部下はデキル上司になる。グチっている人は甘えているのです。子供が親を責めるように。

 そのようなことを言うと、「先生は俺の上司の性悪さを知らないからですよ」という。だからこそやりがいがあるのだと僕は思う。山が険しければ、険しいだけ登山家は燃えるのだ。なんでもない裏山を登っても、それほどの達成感はないだろう。無能で性悪の上司を変えられたら、より自分に自信がつくだろうに。なぜそう思わないのか。
 そう考える部下のほうがスゴイ上司になる。不可能な使命ほど、やりがいがあるものだ。まさにミッション・インポシブルだ。グチっている人は、永遠にグチるのがクセになる。

 親のダメさを責める前に、自分がその親を、どのように越えていくかが、よい親になる条件なのだと思う。誰かを責めることで現状をグチって、人生を歩き始めない人、今の現実を変える努力をしない人も、やはり甘えた人だと思う。自分を被害者意識の牢獄に閉じ込め、頭を抱えているだけで、そこから逃げ出そうとしない。

 愛される人間の条件は、不可能な状況を数えない。いつも「不可能を可能にしてやる!」と笑顔の下で、ワクワク燃えている。こういう明るい性格が、誰からも好かれ、困った時にも、多くの人から援助の手を差出してもらえる魅力を持っている。

 グチばかり言って、人に頭も下げない、笑顔も作れない人は人生を甘えてきたのだと思う。

 だから、コミュニケーションの技術や、その人の生き方が大切なのだと思う。

 自分と親しい内輪集団の中でしか能力を発揮できないから、その内輪集団やポストにしがみついてしまう。
 自分の存在という希少価値を高める努力を怠って、他人と権力闘争をした人は、経済的には成功者になるかもしれないが、人生の成幸者にはなれない。インディアンが目指す、死ぬ時に自分が大笑いして、周囲から別れを惜しまれてワンワン泣かれる名誉ある死に方はできない。最悪は、死ぬ時に自分がオイオイ泣いて、周囲が、笑い転げている生き方になるのだと思う。

 だから人間関係の勉強は、テレビを見ながらのリビングでは決して身につかない。だから、講座は「ふれあいライブ」なのだ!

 遠くから時間を作り、飛行機や新幹線で移動し、ホテルを予約して受講される人がいる。アメリカに留学した時も、アメリカの学生より、遠く諸外国の学生のほうがハングリーなだけに成績が良かった。それと同じでリスクを背負って受講されている受講生のほうが、受講の姿勢や熱心さが違う気がする。

 楽して得られるものは、すぐに失うが、苦労して得たものは、一生の宝になる。

 だから、心理学のセミナーは、参加することに意味がある。ライブに参加しているから、それが何にも変えられない思い出になる。そうですよね。受講生の皆さん!OBの皆さん!

 だから、人間関係の心理学のセミナーだけは、ファースト・セミナーより、教室に通ってココロがふれ合うスローなセミナーがいいのですよ。

 もちろん、「気づき」と「講座内容」は、ファーストだと自負心はあるのだけれど。







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