日本人は「タタミの上で死にたい」と昔から言います。乗り物が発達していない時代には、旅行は今のようにワクワクする娯楽でなかったのでしょう。遠い知らない地へ、
神仏に祈りをささげる詣での旅は、かなりの勇気が必要だったのでしょう。もし旅先で病に倒れると、故郷には二度と帰れない過酷なものだったのかもしれません。何より、人の通らない峠で倒れると死を意味しました。ですから、「旅は道連れ、世は情け」と人との助け合を歌ったのでしょう。あるいは長旅に出なくても「タタミの上で死ねる」ほど、生活が安定し、穏やかに死をむかえることは難しい時代だったのでしょう。
現代も悲惨なニュースが流れるたびに、穏やかに平和に、この世を去ることは、誰にも確実におとずれるとは言いきれない時代になりました。悲しい時代です。
インディアンの人々は「大地の上で死ぬ」ことが最高の喜びだそうです。それは、彼らが生きている間は、母なる大地からたくさんのプレゼントをもらい豊かに生活が出来た。
だから、死ぬ時は、母なる大地が自分たちを吸収してくれる。そして、みずからが大地の一部になって、母なるふるさとを自分の栄養で豊かにする。その大地から、たくさんの新しく生まれる自然の息吹を想うのです。
その豊かな大地の上で、自分が会うことがなかった、未来のかわいいい子供たちが、花をつんで、楽しく走りまわることを想像する。自分が自然の一部になり、未来の人々の人生を支える。
ですから、彼らにとって死は終わりではなく、終わらない永遠の命に入るためのパスポートなのです。だから、彼らインディアンが白人にアメリカの大地を奪われたことは、自分たちの父祖の、やさしい心づかいを略奪されたことになるのです。ですから彼らは徹底的に抵抗したのです・・・・・・
「死」という現象を物理学的にとらえると、死とは「形ある」ものから「形のない」ものへと、もともとあった自然の流れの中に入ることをいいます。
自然の法則は「姿あるもの」は時間経過とともに姿を変化させてゆき、消えてゆきます。私たちの周囲にあるすべてのものは、朽ちてゆきます。
ペンも、ノートも、この机も、私が着ている服も、すべて長い時間をかけて、やがてはボロボロに壊れて、細かく細かく、時間とともに、より細かく壊れてゆきます。お湯はしばらくすると冷めてゆきます。これが熱力学の第二法則です。
宇宙はビッグバン以降、一点から爆発して広がっています。お風呂場に入ると浴室が暖かいのは、お風呂のお湯の熱が空気中に分散しているからです。ですから、お湯自体は周りに熱を分散していくため、冷めてゆきます。タバコの煙は一点から広がってゆきます。コーヒーに角砂糖を入れると、砂糖の粒子が分散してゆきます。砂糖の入ったコーヒーから、角砂糖を取り出すことはできません。VTRで録画して逆戻しすれば時間は逆行できますが、現実の世界では不可能です。
永い永い記録映画を撮って高速スピードで見ることができれば、すべてのものが崩れてゆく様子がわかるでしょう。
仏陀は「般若心経」に書かれているように、その世界観を感じ取っていました。
すべて形(色)あるものは、やがて空(無)に消えてゆくと・・・・ <<色即是空>>
しかし、空間の中にも、すべての物質を構成する素粒子は存在する。 <<空即是色>>
これは現代物理学です。素粒子レベルでは人間も、星も、物体も違いはありません。
素粒子がいろいろと形を変えて、私たちに見えている世界を作っているのです。ですから、私たちは素粒子の中で、その集合体として生きています。外の景色も内の世界である自分自身も、素粒子の集合体なのです。
残念ながら人間にだけ特別な物質はありません。こんなに高度に文明が発達した人類も素粒子の形を変えた姿というわけです。宇宙のどこにでもある素粒子から私たちの身体は作られ、存在しています。
仏陀は言っています。「豪邸に住んでいるとか、お金があるとか嘆くでない。この何もない空中の中にも、その豪邸や、お金もあるのじゃ。しょせん、あの人の豪邸も、お金も,あのうらやましい美しい容姿も、やがては空間の中に消えて行くのじゃ」と言いました。だから、「それによって生まれた、ねたみも、悲しみも、恐怖も、すべては自分の心が作り出し、いつかは消えてゆく煙のようなものだ」と言っているのです。
すべての物をお前たちは空間の中に持っておる。あのエライさんのベンツもやがて空の中に消えてゆくと・・・・・
<<色即是空>> <<空即是色>> ただし、すごい長い時間経過ですけれども。
お釈迦さんには、永い時間も苦にはならなかったのでしょうか?
さすがに超越しています。
このように、宇宙の法則では、時間とともにすべては崩れて、やがて細分化され無秩序な状態へと広がってゆきます。しかし、この絶対的な宇宙の法則に逆らっている存在があります。それが「生命」です。
生きるということは時間経過とともに、構造をより複雑に自動的に作り上げていくのです。私たち生き物は、肉や野菜または水を飲んで、人間という複雑な細胞の構造物を毎日作り上げています。それが生命です。
「進化」とは、単細胞生物のアメーバから、より複雑に細胞が集まって「脳」を持つ人間へと、時間の経過とともに、システムが複雑になってゆくことです。このようにして素粒子の集合体が、複雑な人間を作りだし、「我、思う故に我あり」の「脳」というものを登場させたのです。
そして、この脳は、宇宙の果てやミクロの世界までも知ろうとし、はたまた「自分という存在」について考え悩むのです。
生命はよく見ていると自然の法則に逆らっています。皮膚に覆われた私たちの体温は36℃前後に保たれています。この体温は時間の経過とともに冷めることはありません。死ねば冷めてゆきますが、生きている間は体温を維持します。これは、不思議なことです。
生命体でない、ただのビニール袋に36℃のお湯を入れておくと冷めてゆきます。もちろん、電熱器を使って外から常に熱を送りこめば、ビニール袋の中のお湯は温度を一定に保つことができますが、人間の身体のどこを探しても、電熱器のコードはありません。
我が家のペットの犬は、毎日、毎日、毎日・・・・ドッグフードと水しか食べていません。でも彼女はドッグフードと水のかたまりに変化することはありません。
ビニール袋にドッグフードと水を、くる日もくる日も繰り返し入れ続けると、本来はドッグフードと水がたくさん入った巨大なビニール袋になるはずです。しかし、犬はそんなことにはなりません。それでも犬は犬であり続けるのです。これが「生命」なのです。
どんなに野菜好きのベジタリアンな人でも、野菜を食べ続けているうちに、手がパセリになることはありえません。私たちは、まったくバラバラな食べ物を毎日食べているのに、人間としてあり続けます。生きている間は、自動コントロール機能によって、自分の細胞を作り続けます。そして死ねば、それを止め、食べず、飲まず、空気も吸わず、やがて「宇宙の法則」の中にバラバラに吸収されてゆくのです。そして地球と一つになる。
生きるということは「散りなさい!」という、宇宙の強い命令ルールに「今は、イヤです」と逆らい続けることなのです。
ですから、「生きる」ということは、宇宙の法則に逆らっているのですから、物理学的にみても大変に孤独で淋しいことなのです。
生きるのが「さびしい」と思うのは当然のことなのです。決しておかしくはありません。それが生きとし生きるものの持つ淋しさなのです・・・・・・
しかし、その淋しさも母なる大地に感謝しているインディアン的な人には、「自分は生かされている」「孤独ではない」という安心感があります。なぜなら、私たちは、母なる大地から水や空気や食べ物を取り込み、そして便や尿そして二酸化炭素を排出して生きています。私と自然は一つなのです。都会生活では、それを感じる機会はあまりないですが・・・・そして、地球とのエネルギー交換ができなくなると私たちは地球と本当に一つになる「死」がおとずれます。
私たちはいつも母なる地球からエネルギーをいただいて存在しているのです。ですから、母なる地球の環境問題は深刻です。私たちがエネルギーを取り込んでいる地球が汚れると、私たちは存在できなくなるからです。
外から物質を取り入れ、吐き出して・・・こうして私たちは地球とエネルギーを交換して生きています。私たちは自然界から独立して、離れ、生きているのではないのです。
こうして外からエネルギーをもらって「生きる」ということは、危険がいっぱいです。なぜなら外の世界には、私たちの身体の中に入ると危険なものがたくさんあります。有害なウイルスも、私たちの身体に進入する可能性があるからです。
それを防いでいるのが「免疫」です。
私たち内部の最高の軍隊「免疫」は、自分にとって危険なものが外から進入するとすぐさま攻撃を開始します。
これは不思議なことなのです。人間の身体を構成しているたんぱく質には、様々な形があります。
たとえば、眼球を構成しているたんぱく質と、足の爪を構成しているたんぱく質には、天と地ほどの違いがあるそうです。しかし、免疫は“自分である”と判断すると攻撃はしません。しかし、臓器移植の時は、肉親の臓器でも攻撃します。同じ形の臓器でも“自分と違うもの”と判断すると攻撃を始めるのです。ですから、臓器移植後は、免疫抑制剤を投与しないとなりません。
これは、すごい防衛システムです。私たちが寝ている間も、外からの進入に絶え間なく防御システムを張り巡らして身体を守っています。どんな国の最高の精鋭部隊の軍隊でもこうはいかないでしょう。
そこまでして、私たちは空気を吸い、食べ、飲み、今日も生きようとします。私たちの身体は望む望まないにかかわらず、「生きる」方向に全力を投じるのです。
でも、私たちは何かつらいことがあると「死にたい」と弱音をあげる人がいます。そして、すべての「細胞」や「免疫」の努力を放棄して自殺する人もあらわれます。
60兆個の細胞をフルに使いながら、精一杯生きることに努力を傾けようとする身体と、少しの障害で生きることを放棄する弱い心と・・・・・・
そして、今まで犠牲になり、人に「命」にエネルギーを与えてきた、野菜や魚や母なる大地の願いは・・・・・・すべての生きとし生きるものの贈り物の意味を、私たちは考えているのだろうか。また、生まれてから今まで、他人が、あなたに投げかけた、たくさんの笑顔や眼差しの意味を・・・・・・
宇宙の法則は「あなたたちは散りなさい」という命令を与えているのに、私たちの身体はそれに反して秩序を構築しながら「生きよう」とします。その意味は・・・・・・
あせって死ななくても、人はやがて来るべき時には、死を通して宇宙の法則に組み込まれてゆきます。でも、生きている間は、人を愛し、人と出会い、時には傷ついて、それでも、次の世代へとバトンを渡してゆく。
そのくり返された生きとし生きる世代の中に「進化」や「気づき」は起こります。
私たちが進化しようと真剣に悩まなくても「進化」は起こってきたのです。生き続ける中に進化は組み込まれているのです。
生きることに意味があるのなら、人それぞれが経験する「ツライ」ことや「苦しい」ことも、私たちが変わるための必要なプロセスなのかもしれません。なぜなら、それらの経験が、次の世代の進化につながるのでしょうから。今、私たちは多くの「戦争」や「愚かさ」をのり超えて、人類の生きる目的を苦しみながら探しています。
なぜ、精巧な免疫システムを持ち、汝自身を考える脳を持った人類なのに、母なる大地を汚染し、意味のない殺人や戦争をくりかえすのか。そして、その人類を、母なる大地は怒りもしないで、その生存を許しているのか。それとも、何かを待って耐えているのか?
私たちが、何か大切なことに気づくのを・・・・
僕たちは学習してゆかなければならない。すべての免疫システムがウイルスと出会い、より完成されたシステムに進化するように、私たちはたくさんの愚かなあやまちから学び、より素敵な人類に変化するように。何世代かけてでも・・・・・いつか私たちは真実の私たちに出会えるように。君の失敗も、あの子の過ちも、私たち人類には、とても必要なものかもしれない・・・・・・
ならば、失敗も捨てたものじゃないかもしれない。それは生きることには大切な学びの栄養だから・・・・・やがて私たちが大地に戻る・・・・その時に、それが次の世代の成功へのプロセスになるならば・・・・・・すすんで、失敗しようとは言わない。でも、「生まれてこなければ良かった・・・」なんてはずは、この地球上には絶対ないと思いたい。
やっぱり、すべてに意味があるはず。
ならば、いくら苦しくても、それでも、どっこい生きてやる!
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