幸せのパラドクスについて | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと

■幸せのパラドクスについて
2004年6月7日



 あなたは、「幸せのパラドクス」と言う言葉を知っていますか。これは「幸せ」というものが“あこがれ”である時、「幸せ」という言葉そのものが何よりも輝きを放っているのですが、いざ、そのあこがれだった幸せに到達すると、それは「ありきたりな日常の退屈」としか感じない、という幸せの逆説のことを言います。

 つまり、人は「幸せに近づけば、幸せを失う」というのです。

 「平和で、平等な社会はいいなぁ」と、あこがれていた昔の人が、「西洋では人々が平等なのだと」「へー。そうか。いいなぁ。殿様も百姓もないのか・・・」と言っていた頃の平等な社会は、夢のような、理想の世界なのですが、いざ、現代のように平等な社会になると、その幸せを日々感じている人は少なくなるのです。
 「戦争がなく、平和で、いつもご飯が食べられる生活は夢のようじゃないか」は、いざ実現すると、その生活を、日々心から味わい感謝することがなくなるのです。

 学生の頃、ウインドウに飾られた、革のジャンバーがとても欲しかった。それが売れないことを祈りながら、バイトに明け暮れた日々。やっと手に入れた革のジャンバーは、今でも捨てられない。今は、もっと値段の高い服だって着ているのに・・・・しかし、あの革ジャンを買ったときの喜びは、どんな物を買っても越えることがないのです。

 結婚について、先日若い女性にたずねられたので、「結婚は良いよ」と答えました。しかし、彼女は「でも、夫婦が憎しみの末、殺人なんてことを新聞で見ると怖くって。ずーっと一人の人を愛せるのかしら・・・・」と不安な気持ちを語った。

 彼女は非常に難しい命題を投げかけたのです。誰もがみな、この人しかいないと思い、誰かに恋をする。そして、一緒に暮らすことを心から切望する。
 しかし幸せのパラドクスではないが、一端、その生活に入ってみると、一緒に暮らすことを夢みた思いはどこかに忘れ去られ・・・。「あの頃が幸せのピークでした。あとは色あせて・・・・・だから離婚を考えています」というセリフはカウセリングルームで毎日のように語られる。

 やりたい仕事、あこがれの仕事だってそうかもしれない。それが日常になると感動を失う。
 だからいかに、最初の感動をくり返し、くり返し反復し、その思いを新鮮に維持し続けるかが・・・・むつかしいのです。とくに今のように刺激を求める時代だとなおさらです。

 実存主義のV・フランクは、「愛とは何かを与えてくれるから愛するものではなく、ただ、その人が、世界で唯一の人だから愛するのです。」と言っています。
 フランクルは非常に厳しいことを言ったのです。たとえるなら、病気で性不能の、ご主人を抱えた奥さんが「愛が冷めた」というなら、それは自分に快楽を与えてくれる機能を愛したのであって、その人の中身を愛したのではないのです。その妻は「自分への快楽」を愛したのであって、相手はその道具でしかなかった・・・・というのです。

 嫉妬して、自分に愛情を向けてくれない相手を憎むのも、実は自分自身を愛したのであって、その相手は、ただ自分に喜びを与えてくれる道具だっただけなのかもしれません・・・・・嫉妬にかられて相手を攻撃している人のカウンセリングをしていると、「こんなに相手を愛しているのに・・・」という言葉が、「私はこんなに自分を愛しているのに・・・・相手は私に愛をくれないと」という言葉と重なって聞こえてきます。心理学者のユングは「嫉妬の中核は、愛の欠如である」と指摘したのは恐ろしく冷静な視点です。

 もちろん、自分自身を考えても、そのようなエゴイステックな感情を持たないで、人を愛せてきたのかと言われると、全然自信がありません・・・・だから、恋はたやすいが、愛の完成は、むつかしいのだと思います。

 自然を愛するのは、晴れの日も、雷の日も、嵐の日も愛することだそうです。晴れの日しか愛せないのは、自分の都合を愛しているのだと、インディアンは言います。

 すべてを受け入れる愛・・・・覚めない愛・・・・それは熱くもなく、相手のことを日常的に思いやれる陽だまりのようなものかもしれません。それは、相手が幸せに暮らせることを見守るような眼差しなのかもしれません。

 「たそがれ清兵衛」という映画を作った、山田洋次監督は、「昔は「幸せ」という言葉はなかった、それに変わる言葉があるなら「安心」だった」と言いました。
幸せという言葉が生まれて、「こんな生活が幸せ」と周囲から与えられて、現代人は不幸になったと言うのです・・・・

 この映画にはカッコいい主人公は出てきません。奥さんを失って、二人の娘のために、夕方になると家路に急ぎ、周囲から“たそがれ”とバカにされている主人公に対して、庄内弁で「娘らが、日々成長していくのを見るのは、畑の野菜や草花が、日々育っていくのを見るのと同じくらい楽しいもんでがんす」と言わせている・・・・・山田洋次監督は、現代のような刺激が、当たり前になり、燃えるように激しい「幸せ」よりも、日常に落ちている日々の営みが「幸せな人生」なのだと言いたいのです。 成長した娘の中に残っている、ありふれた父親の思い出の中に「幸せ」という安心があったのだと・・・

 「幸せ」について河合隼雄先生も次のように言われています。「一般に言って、幸福とは、お金があって、仕事がバリバリできて、自分の好きなことがどんどんできる、というようなイメージがある。アメリカのパーティに行くと、そんな典型的な人にお目にかかれる。すべてに自信があふれている、ということは伝わってくるのが、「安心」のほうはサッパリなのである。「安心立命」という言葉があるが、この言葉を生きている人は、しっかりと大地に根ざして生きていると感じられ、 その人の傍らに行くだけでも、こちらが安心しておられるような、そんな人である」と、本に書かれていました。

 先日、ある出版社の依頼で、「男の嫉妬について」の取材がありました。出版社から、加藤諦三先生と衛藤先生に意見を聞きたいと言うので、二つ返事で引き受けました。これは対談ではなかったのですが、そのインタビューの冒頭で加藤諦三先生は、現代の不確実な時代ではますます、日本は嫉妬社会になってゆくと言われていました。年功序列や終身雇用の崩壊は、多くのビジネスマンに不安定感の影を落としている。人は不安定だと、嫉妬心を強くすると話されました・・・・

 そういう意味では、現代は、平等はいいことだ、人並みは良いことだという思いが、教育や経済を動かしているのですが、それと同時にたくさんの不幸も同時に量産しているのです。

 みんなと同じくらいの生活。同じくらいの電化製品に囲まれて、同じくらいのセレブな生活をすべきだと・・・・・

 しかし、このような横並びの「幸せ」から、ひとたびズレると、日常の「幸せ」や「安心」は視野から消え、嫉妬と焦りと不安感で心は一杯になります。そして日常のありふれた幸せが見えなくなる。

 「初心忘れるべからず」と言いますが、これからの時代は刺激を求めるだけではなく、同じ物語を何度も語っても、あきない“老人”に見習い、同じ絵本を、すり切れるほど読み返す“子供”に見習い、ゆっくり反復して、今の「安心」した生活をゆっくり味わって行ける能力が大切なのかもしれません。

 いつも出会っている愛する人々に、新鮮な気持ちで見つめる視野を・・・日々の生活の中に新鮮さを感じる能力を、磨くことが必要な時代なのです。

 それがわかれば私たちは幸せなのだと感じます。このことに気づけば、かなりの多くの日本人は、今すぐにでも「安心できる日常」に救われ、「幸せ」になれることでしょう。

 刺激のある時代から“スローな時代”へ、今、身近にあるものの価値を問い直す時代へ・・・それが幸せを発見できるメガネの磨き方なのかもしれません。


    青い鳥はすでにあなたの中に住んでいるのです。

         安心してゆきなさい。








背景画像を含めた印刷方法について