夢は平原をかけめぐる・・・・PartT | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■夢は平原をかけめぐる・・・・PartT
2001年9月18日

 7月もそろそろ終盤をむかえる頃。ふとある朝、何かを忘れているような胸騒ぎ・・・・朝食をとっていても思い出せない。アリゾナの太陽はじりじりといつものような勢いを発揮する準備を始めている。太陽・・太陽ね。Sun・・・サンDanceだ。急いでスーザンさんに電話を入れる。「お久しぶりです。あのー。前にスーザンさんのところにロス博士主催のサンダンスへの招待状が着ていると言われてましたよねぇ。それいつでした?」ロス博士はスーザンさんの訳書「我らみな同胞」の著者だ。

 「ちょっと待ってね。見てみますから・・・・あったわ。よく憶えてたわね。明後日からよ」「僕行きたいのですが、ダメですかね」「もうロス博士はすでに山に入っているから連絡は取れないわ・・」「僕、天外先生と本場でサンダンスを見て日本風にアレンジできるかどうか考えてみますと約束したのです。だから夏のセレモニーのサンダンスだけははずせない。場所わかりますか?」「いつもの場所だと思うわよ・・」「僕、行きたいです」「私だってウル憶えだから現地に行ってみないとわからないわ・・・」「だいたいの場所で良いのです」こういうやり取りがあって僕はその日にサウスダコタへの飛行機のチケットを購入し、そして、スーザンさんから教えてもらった四色の色のリボンを作った・・・・・・

 黄色は「東」をあらわす。太陽は東から登る。朝一日の始まりらしく、すべての生命活動の始まりに感謝するための色。すべての始まりを意味する。誕生・生成・新たなスタートを意味する。

 その対極に黒色の「西」がある。西は太陽が沈むと同時にすべてを闇の中に呑み込んでしまうような巨大なパワーを秘めている。そこに良いことも悪いことも言い訳すらも存在しない厳しさがある。老年期・知恵・浄化を意味する。

 白色は「南」にあたる。南に太陽がある時は、人々は明るくエンルギシュに活動する。それが昼だ。その時間はすべてのものが影響を受けやすく、真っ白なキャンパスに似て、様々な事を吸収し成長の時になる。したがって「南」は吸収・成長・結合を意味する。

 そして、赤色。赤色は「北」をあらわす。これは太陽が見えない深夜を示している。赤はインディアンにとって大切な色で、太陽が見えない深夜に人は眠りや瞑想の中で一番にグレートスピリットに近づくことができるといわれている。仏教でも半眼すなわちレム睡眠時の夢や深い瞑想の中で人は悟りの境地に近づくといわれている。

 人が眠っている時は、ユングが顕した集合無意識(人も動物も植物も地球まで包括したすべてがつながった世界)にアクセスしやすい状態に近づくのかもしれない。そんな時間帯がインディアンにとっては赤なのだ。赤はインディアンにとっては悟りに近づく色なのである。

 彼らの儀式にはこの四つの色が必ず必要になる。彼らはいつも東西南北を意識している。以前スーザンさんからこんな話を聞いたことがある。ロス博士が講演で日本に来られた時、博士が梅田で突然先にホテルに帰ると言い出し人ごみの中を歩き出した。雑踏の中で博士を見失ったため、慌ててホテルに帰ってみると、宿泊先の心斎橋のホテルにすでに彼は帰っていた。

 「どうやって言葉もわからない博士が、誰にも頼らずにホテルに帰ってきたのですか?」とスーザンさんがたずねたところ、博士は「私はどの街を訪問していても太陽の位置を確認している。それで方角は完全にわかるのだ」と説明されたそうだ。彼らインディアンはいつも四つの方角を確認して自分の地球での位置を決めるのだ。

 僕もアメリカに来て太陽の位置で自分が、どこを、どの方面に向かって車を走らせているのかを確認するようになった。この広いアメリカの大地ではこの四つの位置関係が自分の位置を正確に知るための大切な能力だということがわかる。

 旅の前夜に僕は、自分の部屋でせっせと四色のリボンを作った。明日からの旅に夢をはせながら・・・・


 次の日、スーザンさんにアリゾナ・スカイ・ハーバーまで送ってもらい、出発前にロビーで人目もはばからずに旅の成功をインディアンのように祈ってもらった。本当に彼女はメディスンウーマンのようだ。予定では昼にはサウスダコタ州のラピッドシティに着くはずだった・・・・

 乗り継ぎのコロラド州のデンバーまでは予定時間に到着した。リュックを背負って52番の搭乗口に向かう。歩きながらDepartureモニターを見る。目的地Rapid city / Canceledの文字。「何それ?取り消しって。」慌てて52番のカウンターに急ぐ・・・・戻りの飛行機が離陸する前にトラブル発生。「カスタマーカウンターに行って次の便の変更をしてきて下さい」「それどこ?」「32番カウンターの横です」

 おいおい、ここは52番だぞ。それでなくてもデンバー空港は横に長いのに・・・・ぶつぶつ。でも出てくるのは笑顔で「OK!」悲しきかないい人・・・聖なるダンスを見に行くのだ、怒っちゃいけない。

 12:30分が14:30分に変更。デンバーに到着したのが11:30分だから3時間待つだけじゃないか。長くなった講座は3時間くらい。「あっ、という間だ」と考える・・・・時間の尺度の判断基準が今でも講座の長さになっているのが悲しい・・

 ・・・空港でコーヒーをすすっても、食事をしても一人ではそんなに時間が経つものじゃない。「そうだ本でも読もう」と思ってリュックの中に手をゴソゴソ・・・・シマッタ!機内預けのバッグの中だ・・・・ボーっ・・ボーっ・・・・ぼーっ・・・・


 日本にいる時はぼーっとする時間が欲しいと思ってはいたけれど「いそがしさ」がふるさとの僕には、何もしない時間は拷問に近いということがわかった。


 僕の搭乗便は、僕がモニターを見るたびに時間が変更され、実際に飛び立ったのは16:30だった。結局、5時間待ったことになる。どうも僕はアメリカの航空会社と相性が悪いようだ。渡米時のサンドストームといい、今回の旅といい・・・


 18時頃に、ラピッドシティにようやく着いて、予約を入れていたレンタカーの事務所へ。インディアンの保留地は悪路が多いのでいつものように4WDのジープを借りる。

 これもアリゾナで予約済み。このサマーバケーション時期は希望のレンタカーがないことが多いのでこの辺には手抜かりはない。与えられたカギは緑のジープ、チェロキ―だ。いつものように「よろしくな」とボンネットをなぜる・・・・それが相棒への挨拶・・・

 高台にある飛行場を下り、今からの約束されない旅に心のステレオからは音楽が流れ出す・・・アリゾナと違った景色・・・明るく華やかな“みどり”の景色が広がっている。

 アクセスハイウエイに出たところで車を止めて地図を確認。心は高鳴る。車を止めようとハザードのボタン押す。ハザードがパチッと一度点いてすぐに消えた。

 故障だ・・・少し心のリズムはスローになった。「でも、ハザードなんてそれほど使うこともあるまい」と気をとり直し、ウインカーを左に点けてハイウエイに戻る。ラピッドシティまで一本道・・・・

 高原の澄んだ空気が流れて行く・・空気があおい・・しばらく走って市内に入る。それほど都会を感じさせない・・・・これがサウスダコタの州の都市・・・?と以外だった。

 でも後に、ここを何度か走って街の全体がつかめた頃、とても「味がある街」に変わっていった。ラピッドシティを中心にそれぞれの個性的で古き良きアメリカの街が周囲に集まっている。

 町に入ると車線変更を余儀なくさせられる・・何度目かの車線変更で突然、指示器のウインカーが点かなくなる。Goodness! 最悪!この時には心の音楽はかなりスローテンポになっていた。車を降りてプラグボックスを開けてみる。
 予備のプラグをIndicatorsと書かれたところと取り替えてみても指示器は何の反応も見せない。お手上げ・・・・・・

 飛行場へ引き返す・・・・レンタカーのカウンターの彼は「申し訳ない」と一言。そう言って他の車のカギを僕に渡した。ここで日本の客商売なら、申し訳なさそうにモミ手でもして何かサービスをするのかもしれない。でも、それをアメリカで期待するのはムリなことだ。大騒ぎしても彼らにとって「問題が解決できたから良いじゃないか」と呆れられるだけだ。

 もちろん訴訟好きのアメリカ人に見習ってロスタイムから生じた損失をリストアップして法廷で戦うというなら別だが・・・。たかだかこの程度のアクシデントは目くじらを立てるほどでもない。だから、「今度は上手く行くことを願うよ」と言って歩き出した。そっと風に流して笑っているほうが自分に爽やかな風が戻ってくる・・・・まさに気分爽快(そうかい)だ。


 日本人は、どんな商売に対しても高級ホテル並みの「お客様は神様です」的なものが染み付いている。でも、ここアメリカでは、それを期待するだけ腹が立つだけだ・・・・・

 もちろんアメリカにもサービス精神がないというわけではない。高級なホテルに泊まり、高級レストランで食する日本ツアーの旅行ならあるかもしれない。チープな旅をしているバックパッカーでそれを過剰に期待しすぎると苛立つことの連続だ。だから日本は親切な国なのだ。どのレベルの商売でもサービスはそこそこに徹底されているし、染み付いている。

 だからたまにサービス精神が日本人並みの人に出会うと「親切な人だなぁ」と妙な感動を覚えるから旅は楽しいのだ。それはある種の心地よい感動を生む。これは期待していないだけ感動が大きいのかも知れない。相手に強い期待を抱いている人ほど、いつも騒いで苛立っている。まさに心理学だ。そう“期待損失の心理”「あの映画すごく良いわよ」と言われて過剰に期待して行くとガッカリすることの方が多い。

 昔、誰だかが言ってたが「私が紹介する彼女はすごく可愛いから」と言われて、いそいそと待ち合わせ場所に出掛けて見て「可愛かったためしがない」と。それは「受け止め方の違いだから」と僕は言ったが、周囲の男性陣の深いうなずきと共感の前に、彼の言うことの信憑性の高さを感じたことがある・・・・・なるほど。


 白のジープのチェロキーに乗り換えた。「お前は期待を裏切るなよ。」と車にしゃべりかける。インディアンと関わって、すべてのモノにスピリットが宿っているような気分になっている。外から見るとアホです・・・・でも、このアホさが心地よい。その日は疲れていたのでチープなモテル探しはやめて、街の中で目についたホテルに泊まった。


 次の日、ラピッドシティからスタージスに北上して、そこから開拓時代の宿場の雰囲気の残るレッドウッドを通りリードへ。この間、バッファロー(タタンカ)を初めて目の当りに見て・・・ダンス・ウイズ・ウルブズの舞台、スー族のサウスダコタに来たのだと実感した。

 その途中、道に迷って誰かに尋ねようと材木置き場のようなところに車を止めて、「すいません。すいません。」と声をかけると、奥から長身のカーペンターが白い歯を見せて、「どうした?」「道に迷ってしまって。リードに行きたいのだけど・・・・」

 彼は教えてくれるのだけど、道が複雑すぎて一度では理解できない。僕が「そこで右で、ALT14をまっすぐ道なりに何マイルでしたっけ?」と何度も聞き返すと、彼は旋盤機に向かって木を切り出す作業を再開した。僕は「まぁ、しょうがない。なんとなく探しながら行くか・・・」と思いながら歩き始めると、「待てよ。」と後ろから呼び止められる。

 彼は今切った木の破片を持って、作業で散乱した材木をマタイで僕に近寄ってきた。そして切った木の板にペンで道順を書き出したのだ・・・・そして茶目っ気たっぷりに「食事はここが最高だ」と道の途中に○をした。僕は「ご親切にありごとう」と告げ、板の地図を持って車に乗り込んだ。「気をつけて行きな。」彼は車の僕に声をかけて、また、その長身な足で材木をマタイで旋盤器に向かって作業を開始した。

 それから僕は彼の手渡してくれた“木の地図”を見るよりも、切りたての木の香りを鼻に近づけては、旅のやさしさをかみしめていた。


 リードからシャイニークロシングまではすぐ。そのシャイニークロシングから次の州ワイオミングまでのわずか10マイルの道のどこかにサンダンスのグランドがあるはず、とスーザンさんが言っていた。僕は小さな看板をすべて確認しながら何度も10マイル程度の短い距離を行ったり来たりしていた・・・・・

 でも僕はインディアンの聖地、巨大ブラックヒルズの中にいる。インディアンの聖地なので探しながらではあったが自然の美しさに見とれていた。その日は、幻のサンダンス会場を求めて、僕は車でそこを何度も往復した。助手席では旅立つ前に部屋でせっせと作った四色の、祈りのリボンが出番もないまま淋しく揺れていた・・・・


 飛行機のトラブルで棒に振った昨日といい、サンダンスのグランドを探している今日といい、僕は2日間も自分の目的に近づけず焦りの中にいた。「普通の観光旅行に切り替えようか」と心の中で、もう一人の僕が代替案を出す。でも、もう一人の僕があきらめ切れないままでいる。僕は心の着地点を探しあぐねていた。その日はリードのモテルで宿泊した。星が降る様にモテルの上で輝いていた・・・・

 ところが、日頃お忙しくてつかまらない帝塚山学院大学の川上先生に連絡がとれたのだ。日本メンタルヘルス協会の事務局の鈴木ちゃんが気転をきかせて連絡をとっていてくれたのだ。川上先生の伝言で、インディアンの保留地に住む、スー族ラコタ・インディアンと結婚したMichikoさんの所に行けば何か情報がもらえるかもしれない。住所を控えて地図で確認した。また、無駄に終わるかもしれない。でも、少しでも可能性があるならばそれに賭けたい。


 また、ラピッドシティに戻って、そこからR40に下る。昨日までは場所がハッキリしない所を黙々と探すだけだったが、今度は住所がわかっている。ただ、メディスンマンと結婚したMichiko さんしかわからないのが心配だが・・・・・・ただ、川上先生いわくMichiko と言えば村の人は誰でも知っているとのことだった。そのMichikoさんという名前だけが頼みの綱。でも、僕には必ず会えると確信があった。理由はないのだが・・・・

 なぜか、鼻歌混じりだった。目標が定まると人はそこに焦点があたって他のことは考えられなくなる。人生でも同じだ・・・・

 景色までが華やかに見えた。ゴルフ場がどこまでも続くような緑の大地。なだらかに続く道。緩やかに流れる道路。僕は絵の中にいた。どれくらい走るのだろうか?その村は標識が出ているのかな?

 そう思いながら走っていると二人組みの男が、橋の所で僕の車にヒッチハイクのポーズで手を挙げた。僕はサイドミラーの中で彼らが「またダメだった」という顔で笑ったように思えた。一瞬考えたが僕は車を止めてギアをバックに入れて車を彼らの所まで戻した。

 二人組みはインディアンだった。

 車を止めて、「what is the matter?」とたずねた。彼らは釣りに来ていたが、迎えの車が来ないから困っているところだという。「僕はblue hillという所に行くのですが、あなたがたはそこを知っていますか?」若い方の一人が「よく知っている」という。「Michikoを知っていますか?」「ああMichiko」と若い男は笑った。僕はこれで安心して村にたどり着けるとこの時思った。彼らの釣り道具を車の後部に入れて、僕は車をスタートさせた。

 「あなたはネィティブアメリカですか?」「そうだ」「ラコタ族ですか?」「もちろんラコタ族だ」「僕は日本からネイティブの文化に興味があり、それで来ました・・・」と言いかけたところで一台の車とすれ違った。後ろの年配者のインディアンが叫ぶ。「迎えの車だ!」僕はUターンをして、その車の後を追った。そして彼らを乗せたあたりで追いついて彼らの釣り道具を積み替えた。すると若いインディアンが僕の車に乗り込んで「俺はこっちに乗る」という。

 僕はその時、向こうのレズcar(インディアンの保留地内を走るボロボロの車)より、こちらのほうがクーラーが効いていて良いのだろうぐらいにしか思わなかった。そして年輩のインディアンはレズcarに乗り込んだ。

 僕の車は迎えの車の後ろから走っていたが、そのもう一人の年輩インディアンが乗り込んだ車が左の道に行った時、「俺達は右だ」と若いインディアンが言う。「彼と家が違うのかい?」「そうだ。それにお前はラコタ族のことが知りたいのだろう。だから、俺の家に来い」「ありがとう」僕はその時も彼がMichikoさんと同じ村に住んでいると思い疑わなかった。

 「僕はサンダンス会場を探している」「そうか俺の村は終わった。それよりお前はバッファローダンスを知っているか?」「パウワウのダンスの1つですか?」「そうだ。それは戦士の踊りだ。俺は戦士だ。お前それを見たいか?」「それは興味があるなぁ」「俺の家にはバッファローダンスの人形がある。2feetもあるんだ。わかるか?」と彼は手で示した。そして頭に両手の指を一本ずつ立てて、そのポーズを示した。

 「普通は500ドルもするんだ。お前はいい奴だから、400ドルで良い」「そうだね。興味はあるけど飛行機で来たから持って帰るのも大変なので見るだけでいいよ」「よしわかった300ドルでいい。250ドルなら買うか?」「ありがとう。君の友情は感じるが、買う気はない。ところであれから一時間以上走っているけれどblue hillはまだかな?」すると「blue hillはもう過ぎた」と彼はいともたやすく言ってのけた。

 「じゃ、僕たちはどこに向かって走っているの?」「戦士の家。俺の家だ」僕は“戦士が人形なんか売るか”と思いつつMichikoさんの知り合いだからと思い直し笑顔で「blue hillにMichikoが居ると聞いて来たんだけど、君の家から近いの?」「誰だMichikoって?」「だからシャーマンと結婚している日本人で・・・」「ラコタに日本人はいない」「そりゃそうだ。だからラコタのシャーマンのバルニーと結婚した日本人だ。君は知っていると言ったじゃないか」「俺は笑っただけだ」沈黙・・・・。

 「困った」とこの時、真剣に思った。彼は僕よりも体が大きいし、草原の真ん中。トラブルになるかも知れない・・・・・・でも、僕は冷静さより彼のふてぶてしい態度に怒りの方が上回っていた。

僕は隣に座っている彼を見つめながら彼の肩に手を置いて、

「I under the Native American culture well.
(ネィティブのことは良くわかった。)
Next、 I will teach you about my country.
(今度は俺の国のことを教えてあげよう。)
By the way、 do you know karate?
(ところで君は空手を知っているか?)
Do you know Bruce Lee and Jackie Chan’s movies?
(ブルース・リーやジャッキー・チエンの映画は知っているか?)
I am descendant of a Japanese samurai family.
(僕は日本の武士の流れを汲んだ男だ。)
Karate is a traditional from of fighting in Japan.
(空手は僕の国の伝統的な武術だ。)
If you are a fighter、 I am a fighter、 too.
(君が戦士なら僕も戦士だ)」

と僕はシャツの袖を肩まであげて自分の腕を見せた。

「I can use my arm as my weapon.
(この腕が僕の武器だ。)」

彼の目に怖れの色が浮ぶ・・・・・

「If like you、 I can break the windshield in front of you.
(なんなら、この目の前のフロントガラスを割って見せようか。)
The air will be good for us.
(風通しが良くなるよ)」

僕の目もきっと座っていたと思う。

「Listen to me、 I do not have time for this.
(よく聞け、僕には時間がないんだ。)
Because I have to meet my friend Michiko.
(なぜならMichikoに会いに行くからだ。)
Although I thought I could take you all the way home、 I do not have time.
(君を家に送って行きたいが時間がないんだ。)
I will take you to the major road where there are many cars.
(車がたくさん通る道路で君を降ろすから。)
Do you understand What I’m saying?
(僕の兄弟よ、僕の話をわかってくれるね?)」

彼はサンキューと頷いてからは静かになった・・・・

 僕は車の多い道路に出てからも彼を車から降ろさず、彼の村が見え、かつ電話があるストアーの前で彼を降ろした。日本人の武士の情けが働いたからだ・・・・


 結局、僕はネブダスカ州の境アルドモアまで行ったことになる。僕は来た道を急いだ。未だにMichikoさんの村も判らず、すでに日は西に傾きはじめている。夕方の女性の忙しい時にお邪魔したくはない。そう思うと僕はアクセルに力が入った。「何がインディアンは嘘つかないだ。俺は親切で乗せたのに・・・Michiko 知っていると言ったじゃないか。ヘイメーン!インディアン!」そう一人で車の中でつぶやいていた・・・


 途中で車とすれ違う。その時自分の乗った車がかなりのスピードを出していることに気づいた。ブレーキに足をかけて踏み込む・・・その時、運悪く舗装道路から砂利道に切り替わった瞬間だった。砂利道でのハイスピードでブレーキ―は危険。頭では解かったが足がすでにブレーキを踏み込んでいた。一瞬にしてハンドルが軽くなる・・・要するにハンドルが効かない。車が右に左に傾く。どちらかの車輪が地面に着いたり離れたりしているのだ。

 次の瞬間、車が右に突っ込んで行く気配。僕はハンドルを大きく切ってブレーキを踏み込んだ。車がスピンして進行方向と逆さまになった瞬間に、僕は逆にハンドルをまた切り替えしてサイドブレーキを最初は慎重にそして最後は思い切り引いた。車がモウモウと砂ケムリをあげて左に向いて止まった。しばらくは砂ケムリでどういう状態かも分からないほどだった。この間は、ほんの0.0何秒のことだと思うがスローモーションのように僕には思えた。

 僕は自分の身体のことより車が傷つくことを心配した。奇跡的に道路からはみ出すこともなく車は道路内で止まった。左側を見るとすれ違った車が心配して坂の上で止まっている。僕の車のエンジンは止まっている。僕は祈りを込めて僕の車のイグニションに刺さっているカギを回した。軽快な音を立てて、車のエンジンが動いた。僕には馬のいななきに聞こえた。「いい子だ」と口から素直にでた。

 相棒が無事だったこと、僕が無事だったことを神様に感謝した。僕がゆっくりとハンドルを切ると、車は動き出した。バックミラーで、すれ違った車が心配してこちらに走ってくるのが見えた。でも僕の車が走り出したのを見て、またUターンをして自分の方向に動き出した。僕は感謝した。知らない誰かに。「ありがとう。親切な方」こんな車のない車道で事故を起こしていたら、あなたの親切が身に沁みたことは容易に想像ができる・・・・


 それと自分の行動に反省をもした。家族のこと、仲間のこと、自分だけの身体ではないのだ。慎重に行動せねば・・・・・そうしてしばらく走って行くとblue hill40マイルの看板を見つけた。これなら何とか夕方までにたどり着ける。それにしても辺りが暗くなるのが早い。アリゾナより北に位置しているからか?

 その理由はすぐに解かった。あれよあれよと言う間に、暗雲にわかに立ちのぼり大粒の雨が降り出した。辺りは一瞬にして夜のようになる・・・・ライトを点けてゆっくり走り出す。大地がデカイだけに自然の移り気も半端じゃない。

 僕が向かう進行方向には雷が勢いよく大地に電気攻撃を仕掛けているのがわかる。恐怖より美しさを感じた。華麗な自然のショーだ。その高電圧のショーの中に自分もキャストとして参加することをうすうす感じながら・・・・・・僕は闇の中を美と恐怖の舞台に向かって車を走らせた・・・・やがて車は雷に囲まれた。

 四方八方で激しい音が鳴る。花火大会の数倍も腹に響く。“今年はちょうど日本で花火大会を見れなかったから”とプラス思考になろうとするが数百メートル先ぐらいに雷が地面にタッチダウンしスパークするのを見ると生きた心地はしない。でも、車を走らせるしか今は方法がない・・・・・・・・今回の旅は僕にとって「行くな」と言うことなのか? 僕の勇気が試されているのか?

 僕はこの時、正直に上からの視線を感じた。試されていると思った。広い大地の中で金属が走る。どう考えても落ちるだろう・・・・でも、僕には僕を待っていてくれる仲間がいる。もし、僕の上に落ちたら、そういう結果は甘んじねばならない。そう思っていると、雷が「お前のチェックは終わった」と後ろに遠ざかるのがわかった。インディアンの地では自然に意思があるのを感じる・・・・確かに意思があるのだ!


 雨は依然激しかったが、少し空が明るくなったような気がした。その中でMichikoさんの村の小さな標識を発見!スピードを出して走っていたら、きっと見逃しただろう。

 雷さまの道案内・・・・・大自然の猛威に試されているかのように・・・・・・視界ゼロの嵐の中たどり着いた村がMichikoさんの村という偶然。


 村に入った最初の家。寄り合い所か?施設の学校か?嵐を避けてたくさん子供達が集まっている。見慣れない車が村に入ってきたことに興味津津の子供達。窓やドアから顔を出した子供達に「ハーイ! ドゥ ユー ノウ  Michiko?」 バケツをひっくり返したような雨に打たれながら車から顔を出してたずねる僕に、「アイ ノウ」と子供達がそれぞれ同じ方向に指をさす。

 ここだ!着いた。子供達の顔が輝いて天使に見えた・・・・ここまで色々あったから、たとえ人違いでも「いいや」と、この時心底僕は思った。それくらい子供達の顔が美しかったから・・・・・・ プリーズ ショー ミー ザ ウエイ.  ウエアー Michikoズ ホーム? カモニン ! ギブ ユーア ライド.」Michikoさんの家を教えてもらうために車に乗ることを促がしたら、抵抗もなく女の子達二人が笑顔で乗ってきてくれた。ホッとすると同時に無防備な子供達に少し心配になる。

 村の道はぬかるんで泥が車のフロントグラスにこびり付く。ハンドルがとられて右や左に蛇行しながら車はゆっくり走る。ハンドルに集中する僕がおかしいのか後部座席でクスクス笑う子供達・・・・外は嵐なのにMichikoさんの村に入った安堵感と子供達の屈託のなさが可愛くて僕も笑い出す。車内は笑いの渦になる。

 Michikoさんの家はピンクのプレハブ。白人の中で暮らしている僕にとっては決して経済的には裕福でないのは見て取れる。いやこの村全体がそうなのだ・・・・。一人の子が車から降りて彼女の家をノックする・・・・返事がない・・・留守なのだ。あきらめてさっきの子供達の集会所みたいなところに戻って手紙を書いて本を添えて帰ろう。縁がなかったのだ・・・・


 最近とてもあきらめがよい僕・・・それは執着心がなくなっているのではない。インディアンの人々と接するうちに「すべての良いことは正しい時に正しい場所で起きる」のだということを信じられるようになったのだ。とんでもないヒッチハイカーを乗せたことも、スリップしたことも、雷に囲まれたのも、みな意味があるのだろう・・・・・・

 それに留守が重なるとさすがに僕も、ワカンタンカ(ラコタのインディアンは神様をこう呼ぶ)が会うなと言っているような気がしてきた・・・・・あきらめではなく、落胆でもなく、そうか・・・とカラッとした気持ち。

 子供達を乗せて集会場へと帰ろうと子供達を促す。子供達に車の中で感謝を伝えながら・・・・・・気持ちは清々しい・・・・


 その時、途中の家から女性が一人飛び出してくる、雨の中を。「私の家に車が行ったのが見えたから、何か御用ですか?」オー神よ。と思わず叫んでしまった。久々の日本語!「あのー僕、日本から来ました。あなたに会いに!」唐突に愛の告白みたいなシュチュエーションだと思った。「エー?」意味がわからず彼女が聞き返す。「あのー帝塚山の川上教授の紹介で」「あー川上先生のお知り合いですか」と彼女から微笑みがこぼれる。

 雨は止みかけているがまだ少し降っている。「ここでは雨に濡れるから、主人の母の家なのだけど入って」「ちょっと待って、その前に、この子たち送ってきます」僕がMichikoさんに会えたのを見届けると雨の中を歩き始めている天使達を車で追いかけてあの集会所へ・・・日本から持ってきた“折り紙”をお礼に渡して天使二人を降ろす。仲間の子供達に囲まれて折り紙を嬉しそうに見せているのをバックミラーで確認しながら。きっとたくさんあるから天使達ならみんなに配ってくれるはずだと思いながら・・・・
 

 Michikoさんに会えた。ここはMichikoさんのご主人の母の家だ。Michikoさんの夫はメディスンマンだから、この人はメディスンマンの聖なる母になる。僕は車椅子に乗った歴史あるラコタの老女に膝をついて挨拶をした。どこから彼は来たの?と彼女はMichikoさんに聞いた。僕が英語をまったくしゃべれないと思ったらしい。「日本から来ました」と言うと、彼女は僕の方を見て「遠くからよく来た」と僕の手を両手でなぜてくれた。

 なつかしいシワだらけで暖かい手。

 他の人に挨拶をした後に「僕、ロス博士のサンダンスを探して来たのですが見つからなくて」「うちのサンダンスは8月の2日から始まるから居ればいいじゃない」「でも、僕も学校があるので・・・・それに飛行機のチケット29日にとっているので」「そう、残念ね」「良いです。Michikoさんに会えたし」「あっそうだ。サンダンスあるわよ。ちょっと待って。ここから7マイル行ったところにあるわ。白人ばっかりが見に来ているから私は行かなかったけど。あるから行ってみれば」「ラッキー本当ですか。やったーありがとう。やっぱり来て良かった」

 僕は焦っていた。昼に着く予定だったのに、もう夕方になっていたからだ。ただ、ここの夕方はとても明るい。リュックの中から日本からのお土産と僕の本を取って、「よければ読んで下さい。それからこれはみなさんに分けて。」「衛藤さんは本を書いているの?」「ええ」「じゃ−もしかして有名な方だったりして・・・」ギクッ。嫌味な言葉。「いやー。有名なことはないです。でも、知っている人は知っているかな・・・」僕も最後まで切れが悪い。

 「それじゃ、僕帰ります。」「もう帰るのですか?ああサンダンス見に行くの」「ええ、それにもう遅いし。Michikoさんに会えたし、もうこれで収穫があったから。それにサンダンスも見られそう出し」「衛藤さん、明日よければもう一度来ませんか?主人のバルニーも衛藤さん会いたいと思うから」「分りました。そうします。また明日来ます」


 Michikoさんの村から帰る時、雨はスッカリ、嘘のように上がっていた。教えられたサンダンスの場所へ行く道の途中で、虹が途方もなく大きな真青な空にかかっていた・・・ドラマチックすぎるくらいドラマチック。


 僕は理屈ではなく神様の存在を信じられた。涙が自分でもおかしいくらい流れた。思わず持っていたデジタルカメラでそれを収めた。「大きな苦難の後には、得られるものは大きい」サンダンスの意味だ。

 サンダンスの会場はすぐに見つかった。遠くに彼らのテントのティピーが立ち並ぶ。道なき道だけど、すれ違った白人のトラックに「あそこはサンダンスの会場ですか?」と聞くと「そうだよ」と答えが返って来た。

 会場に入ってすぐに、子供達が「5ドルだよ」と寄って来た。僕はポケットの後ろから5ドル札を渡した。すると他の子供達が「僕にも5ドルだよ」おかしい。すると後ろから走ってきた、その子のお姉さんらしき少女が「ここはタダよ。この子達に騙されているのよ」「僕はまだもらってないよ」と子供達が窓にしがみつく、それを女の子が後ろから引っぺがしにかかるという始末。

 「よーし。分かった。いい物をあげるよ」と僕は車を降りてストローにスライム状のものを付けて風船に膨らませる遊び道具の指導を始めた。子供達の目が風船より大きく見開かれるのを楽しみながら・・・その御陰で僕がサンダンスのポールの前に行った時は今日の踊りは終わっていた。

 年寄りのインディアンが近づいてきて「どこから来たのかね?」「日本からです」「今日はもう終わったよ。4日あるからまた来なさい」「ありがとうございます。僕リボンを持って来たんだけどサンダンスのポールにくくり付けて良いですか?」「わしは、ここの者じゃない。他の部族だけど、ここの者に聞いてあげよう」と言ってティピーの中に入っていった。すぐに彼はティピーの中から出てきた。「いいよ。若いの。祈りを込めて結びなさい」その年配インディアンのティピーからの出方が後ずさりで慣れていてステキに映った・・・

 僕は祈りを込めてサンダンスのポールにリボンを結んだ。帰り際、子供達は「明日も来てね。」「僕はチャイニーズが好きだよ」いつのまにか僕は中国人にされていた。


 その日、ラピッドシティに戻りモテルを探す時も鼻歌気分だった。その時の歌のタイトルはって?笑わないで下さい。「母を訪ねて三千里」遥か〜草原に♪ひとつかみの雲が〜あてもなくさまよい〜ってやつ。


 次の日、僕は朝一番に起きて車のエンジンをかけた。夕方5時にMichikoさんの村に再訪する前に行きたい場所があった。ウンンデッド・ニー。

 1890年にサウスダコタ州にある緩やかな丘で女性や子供を含むインディアン300人余りが大量虐殺された場所だ。

 白人に自分達の土地を奪われ、インディアンが白人と交わした条約はその都度、白人に都合よく書き換え直されたため、彼らはアイデンティティ・クライシスの中に疲れていた。

 その頃、南の部族のパインユート族で死者を蘇らせ、白人のために数が減ったバッファロー達を連れ戻せる力がある聖人がいるとの情報がラコタ族にもたらされる。彼らはショート・ブル(背の低い牡牛)とキッキング・ベア(蹴る熊)の勇者2人を遥か南の部族に向かわした。

 この聖人は彼らが着くと自分の帽子の中を覗かせたそうだ。すると彼ら勇者は死んだ仲間達が歩き回っている世界をその帽子の中に見た。続けて聖者は「私はあなた達に食べると死ぬ食べ物を与えよう。しかし、恐れることはない。私がまた、あなたたちを生き返させるから」彼らは聖者を信じてそれを食べて一度は本当に死んでしまったのだ。

 死んだ彼らが行った場所は、白人が来なかった頃の真新しい大地であった。そして自分たちの死んだ両親や祖父や白人に殺された仲間と楽しく話すこともできた。友人達は元気で、自然も昔のまま動物に溢れてアンテロープやバッファロー達で満ちていた。草は青々と伸び、そこには他の部族もいたが争いもなく笑って暮らしていた。

 彼ら勇者は、聖人から新しいダンスと祈りを授かりラコタ族の人々に伝えるためにラコタの村に帰還した。それをゴースト・ダンスと当時は呼んだ。

 当時の彼らは急激に白人に住むところを奪われ、悲惨続きであり、自分達の周りで起きていることが自分達でさえ信じられなかったのだろう。その朗報は瞬く間に伝わり、多くの村からそのダンスを学ぼうとインディアンが集まったのだ。
 それが、パイン・リッジ保留地と言われている場所だ。


 多くのインディアン達が集合する姿を見て反乱だと感じた白人側は第七騎兵隊を彼らの周りに配置し、銃口を彼らに向けた。


 しかし、彼らの踊っている踊りの歌は決して戦いの歌ではなく「良きことのみをせよ。互いに愛し合え、争い事はしないように、白人とも平和に暮らせ。嘘をついたり、盗みをしたりすると、新しい世界には入れない。新しい世界には死もなければ、病もなく、老いもない・・・・」と言う祈りの歌だった。

 当時、子供だったレッド・フォックス(赤い狐)は本の中で語る=(白い征服者との闘い:サイマル出版)=俺は幼かったが、その踊りを見た。ダンサーの内の幾人かが踊っているうちに本当に死んだように卒倒した。メディス・マンらがシーダーをいぶした煙を吹きかけると彼らは目を開け、口々に「俺達は死んで新しい世界を見た。月や宵の明星に出かけた。そこで死んだ父親や母親を見つけたので話をした」と報告した。あれは本当に不思議だった・・・・・

 その後、このダンスで多くのインディアン達が集まったことが切っ掛けとなって大きな悲劇を生むことになる。


 1890年12月29日、多くのインディアン達がパイン・リッジに集まって自分達の幸せのために祈り、踊っていた。そこで悲劇が生まれた・・・・

 アメリカの歴史上ではこの日パインリッジに集まったインディアンの一人が身体検査を拒否し、兵隊と取っ組み合いするうちに、誤って彼の銃から誤射が起こり、その後に騎兵隊の一斉放射が始まったと・・・・

 しかし、インディアン側の証言は違っている。生き残ったインディアンは、その時、誰一人として銃が取り上げられてしまったため、銃など持っているものはいなかったと。そして何より取っ組み合いなどなかったと・・・・


 民族学者のジェイムス・ムーニーはワシントンへ虐殺の報告をこう送った。「最初の一斉砲撃において、ホチキス砲はインディアンの野営地に照準されており、天幕の前に集まっていた婦女子の間に嵐のように弾丸を打ち込みました。そのホチキス砲は2ポンドの砲弾を毎分50発の割合で注ぎ込み、すべての生き物をなぎ倒している。

 その恐るべき効果は、たとえば、ブルー・ホワール・ウインドという名の生き残ったインディアンが全身に計十四ヶ所の傷を負い、彼女のかたわらには彼女の二人の子供が死んで横たわっていたのです。わずか数分間に2百名のインディアン婦女子と90名の男達とが殺されました。そして、死にきれない多数のインディアンが地上にもだえ苦しんだのです。

 生き残ったインディアンの戦士たちは一目散に谷間に逃げ込みましたが、しかし、狂気のような多数の兵隊達に追われ、あるいはホチキス砲に見舞われて、その人たちも、みな死にました。この追跡もまたすなわち一つの虐殺であった、という以外に結論はありえません。幼児を背負いあるいは抱きかかえて逃げまどう女たちも次々と撃ち殺されました。

 抵抗はもうとっくに止み、すべてのインディアンの戦士達はすでに殺され、あるいは死につつあるのに、その虐殺は止まることがなかったのです。母親達は自らの血の中で、すでに生き絶えた幼児を探し、あるいは驚きうろたえる子供の手を引いていました。父親達は死の苦闘の最中であっても辺りを這いまわって家族の者達を探そうとする最後の努力にあがいていました。恋人達は死の間際にあっても互いの名前を呼び合い・・・・・

 この大虐殺の後の情景は悲惨そのものであった。言葉では決してこの忌まわしい光景を描写することはできません」


   クレーマー少佐の証言
 シビングトン大佐が連隊に前進を命じ、インディアンたちは川の方まで後退して、土手のところに身を隠していました。インディアンの指導者“ホワイト・アンチローブ(白いカモシカ)が武器を持たずにわが軍の隊列に向かって両手を挙げて走ってきたのですが、殺されてしまいました。

 女や子供は身を寄せ合っていましたが、わが軍の銃火はこの女と子供の群れに集中しました。100人程のインディアンの戦士が絶望的に抵抗してきました。

 インディアンは全部で500人くらいいましたが、125人ないし175人が瞬時に殺されたと思います・・・・私がシビングトン大佐に、こんなインディアンを攻撃するのは、どう考えても殺人ではないかと言いまいたところ、大佐は銃を私の顔に近づけ、“インディアンに同情する奴は馬鹿だ”と怒鳴りました。大佐はインディアンを殺しに来たのです。状況がどうであれ、インディアンを殺すことを名誉なことと信じていたのです。



 栄光に満ちた合衆国には忘れてしまいたい暗い歴史を秘めた、悲しい名前の野原がある。そこには朽ち果てた小さな教会があって、それはあの日の銃弾の犠牲者を埋葬した集団墓穴の上に立っている。墓地ではなく墓穴と呼ぶそのわけは,犠牲者は100年長きにわたってすら、事件当時の臨時の処置のまま、人間らしい葬儀も埋葬もなく、動物のように穴に叩き込まれたまま、この干からびた建物の下で朽ち果てているからである。

 あの悲劇の日と同じような真冬の雪の日、そこを吹き抜ける風の中にいつも女子供の泣き声が聞こえてくると付近の住民は言う。人間らしい扱いもされず、一世紀以上を経た現在ですら、なんら供養らしい供養もないのだ。不幸な魂は空をさ迷って、恨みの心を人々に訴えているという。

 路傍には大文字で「ウンンデッド・ニー虐殺の地」と書いたわびしい標識が錆付いた鉄条網の柵に立てかけてある。粗末なその看板には明らかに素人の手によるつたない筆跡が残されており、ここに流れた血を象徴するような赤い色のペンキで書かれていた。栄光に満ちた大国、アメリカ合衆国が忘れたい暗い過去の一ページ、犠牲者が白人であればこれほどの出来事を記念するその地、その標識はそれほどのお粗末さではすまなかろう・・・・=スーザン・小山 著アメリカインディアン死闘の歴史より)=その貧弱な看板が今のインディアンの立場を表現しているとスーザンさんは言う。

 1890年12月ウンンデット・ニーの虐殺で、白人によるインディアンの戦争は終結した。推定1000万人いたインディアンは白人の直接・間接の虐殺により95%が死に絶えた。ナチスのユダヤ大量虐殺の犠牲者が世界で600万人。それに劣らない血が刻まれた真のアメリカの歴史。

 白人が入ってきた時食料を与え、風土病の病に倒れた人を眠らずに看病して、この人達は俺の命が亡くなりそうだから命をくれと言えば命すら与えかねないと冒険家に言わしめたインディアン。彼らの「与え尽くし」の実践された高貴な精神文化には私達文明人が遠い過去に忘れてしまった何かを思い起さずにはおかない。命ある全てのものが自分の兄弟であり、人のためにもいつでも喜んで命を差し出すことを最高の美徳としていたインディアンも現代においてもなお虐げられているのだ。=(HP:神を待ち望むより)=

 僕は草原の風薫る中で、ウンンデッド・ニーの地に立っていた。緩やかな丘の上にその墓地はあった。車を下で止め、四色のリボンを持って登る。死んでいった子供達や母親、その死を防ぎ切れなかった戦士の無念さをかみしめながら・・・・・・すべての敵は恐怖だ。白人の側もインディアンに対して恐怖があった。

 恐怖は新たな殺戮をくり返す。

 僕たちは二度と同じ過ちは犯さないようにすべてのことから学ばなければいけないと思う。そうでなければ、彼らの死の意味は消えてしまう。

 こういう悲惨な話を聞くと、だから「白人はこうなのだと」いう歪んだ先入観は、また、新たな恨みの心を引き寄せる。そして、また新たな闘いが生まれる。

 僕には聞こえなかった恨みの声が。僕は信じている。彼らが夢見た、争いも憎しみもない国に、彼らは家族ごと旅立ったということを・・・・・僕らはこの世界に彼らが夢見たのと近い世界を創れるのだろうか・・・・・

 「あの世界」に旅立った兄弟達よ、どうか力を貸して下さいと僕は手を合わせていた・・・・

 そして僕はMichikoさんと、初めてのメディスンマンに会うためにウンンデッド・ニーを後にした・・・・・

                〜To be continued.〜


※Michikoさんと相談した結果、彼女にも生活があり、“ひとりごと”に載ることで多くの方が“はやり”のように訪れて来られても困るので、Michikoさんという仮名で載せることにしました。


 僕は今、学校の授業や課題の多さ、テストの連続で日々追われています。また、僕の場合、他のメンバーと違い、時間が限られているというハンディーがあります。僕は勉強に来たのだ。勉強に専念しているので“ひとりごと”はしばらく勘弁してもらおうと事務局と相談している矢先にアメリカでのテロのニュース。大学でも先生が入ってきた瞬間「君たちはニュースを見たか?」それからというもの、そのニュースがアメリカを震撼させました。

 ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機がぶつかる瞬間の映像が何度も放送され(日本でも同じ状態だと聞きます)映像を見るたびにミセス・スゥイニーは泣いているし、食事時には敬虔なクリスチャンである家族なので、亡くなられた人の冥福と行方不明の人の無事を祈っています。その中で感じたことは、戦争してはいけないということ。「目には目を」のアメリカは恐らく戦争に突入するでしょう。「これは戦争だ」と言ったブッシュ大統領の支持率はうなぎ昇りです。

 アメリカでテロが大成功というニュースがパレスチナ自治区で流れた時、テロ事件が起こっているとは露程も知らないパレスチナ自治区の人・・・その人が街中で食べ物を配っている姿がアメリカのテレビで放送されました。もちろんアメリカ人はそれを見るたびに怒りをあらわにします。

 僕はそのニュースが流れるたびに同じクラスにいる、アラブ人のJimmyを思い出します。彼も気前がよく、誰かの誕生日だと聞くやいなやどこにそれだけ入れていたの?というくらいカバンの中から彼の国のお菓子を配り出す気の良い奴です。いつも“あさって”の質問をして皆からブーイングの嵐をもらっています。笑いながら「何がおかしいの?」と周りをキョロキョロ。「チャント聞いてろよ!」と突っ込まれています。あのパレスチナ自治区の人も、きっと街では気前の良いオジサンで通っているのでしょう。


 僕は今回のことには憤りを感じますが、でもその攻撃の矛先は、僕はやはり「教育」なのだと思います。イラク戦争の時にも感じたことですが、やはり僕はイラクで生まれイラクで育てばフセイン万歳と叫んでいたと思います。

 僕が第二次世界大戦の最中に生きていれば、間違いなくお国のためにゼロ戦に乗り込んだでしょう。想像することがあります。子供達の走り回る傍らで、美しかった日本の昔の景色を見ながら、僕が誰かと話している。「この子供達がアメリカ兵に追いかけられている姿を想像したまえ。誰か助けてと言っても助けもなくアメリカの鬼に串刺しにされる姿を。この美しい自然と子供達の笑顔を守るために、僕は絶対に本土防衛線は死守して見せる。決して本土決戦になって、この美しい国が戦火の火で焼かれないために、僕はチリになってもこの美しき人々と美しき国土の為に明日旅立つよ」と笑っている姿を。

 あの頃の日本は国が出す情報を誰もが信じていた。今になればあれは間違っていたとか、愚かだったと語れるが、熱き心と優しい心で旅立った人々を僕は責められないし責めるほど誰かのために生きてはいないと思う。僕らはその人々が、愛し慈しんだ日本を彼らの想像もしなかった世界に変えてしまいつつある・・・・子供達の笑顔は「平和」といわれる中で引きつり、凶悪なニュースは連続新聞をにぎわし、年間自殺者が3万3千人を越える日本を創ってしまっている。

 怖いのは知らない間に、つっ走ること。それも正義の「名」のもとに。旅客機の乗客の命も、パレスチナ自治区でアメリカの情報がなく自分の国の勝利に浮かれている街の気のいいおっちゃんの命も、誰も、もう命を落しちゃいけない!

 今はただ“恐怖”と“疑い”と“国の違い”という悪魔からの贈り物に僕達が早く気づくことを願わざるえません。僕のクラスのJimmyはアラブというだけで車からジュースを投げられてここ数日彼の顔から笑顔が消えました・・・・

 ご心配下さった皆さま、僕は元気です。学校もあります。ホスト家族の子供達は死んだ人のことを食事の前に祈りながらもアメフトの練習。フットボールの試合と大忙しです。お店も開いています。学校に通う道路は渋滞して車で通学している僕は今でも難儀です。昨日伸ばし過ぎた髪の毛を切りに行き「切りすぎた」と後悔すること千万。ベトナム戦争の時もイラク戦争の時にもハリウッドでは途切れることなく映画が作られていました。

 そしてニューヨークやワシントンと違ってここアリゾナは砂漠の街です。それにどれだけ離れているか知っていますか?大阪と東京くらいに思っているのでは・・・・アメリカ=衛藤先生になっている人。ご心配ありがとうございます。僕は大丈夫です。

 みんながアイランドツアーで楽しくしているので、悔しいから週末は僕も2度目のグランドキャニオンへ車で行ってきました。風を見て空を見てこの大地を見ていると知らなくてもよい怒りから離れられます。僕は僕で亡くなられた方々を追悼します。それはきっと怒りじゃない方法で。日本の過剰報道は新たな恐怖を助長します・・・たまには自然を見て下さい。人間どもの所業と関係のないところで彼らは生きていますよ・・・・・僕も風の色を見ています。では、また。

 平和の祈りと感謝を込めて・・・・・ありがとう。


  緊急の“ひとりごと”でした。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜事務局より〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 現在衛藤先生は本当に日々の勉強に忙しいようで、“ひとりごと”更新のための時間が取れない状況でした。したがって、毎回“ひとりごと”を楽しみにして下さっている皆さんには大変申し訳ないのですが、休刊もやむを得ない・・・・・と相談していた矢先にアメリカでのテロ事件の発生。この事件によって衛藤先生の想いに火がついたようで、多忙の中、多くの時間を割きながら、平和への祈りを込めて緊急のひとりごとを作成され、9月16日の日曜日に事務局へ送られてきました。
 インディアンの“教え”はすべてを語らない・・・一つ一つの言葉に意味があり、奥深く、そこから自分で考え学んでいくことが大切だと言われているようです。私達もみなさんと一緒に衛藤先生が言わんとしていることを考えていきたいと思います・・・・・・

背景画像を含めた印刷方法について