光の中に・・・・・ | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■光の中に・・・・・
2001年7月27日
 アリゾナからニューメキシコへ、車で旅に出ました。

 相棒はジープのチェロキー。ガソリンを満タンにして「さぁ。出発!」17号線を北に上がり、前にスーザンさんと行ったフラッグスタッフへ。フラッグスタッフは山の上にあるので、この峠を越えると未知の世界・・・・フラッグスタッフまでハイウエイで2時間。僕はここへ来るまでの道が好きだ。それはなぜか、それは当然、標高が上がれば、温度は下がる。温度が下がれば、生態系も変化する。フェニックスから出発すると、最初はソノラマ砂漠独特のサボテンだのパロベルデだのが生えているが、標高が上がるにつれサボテンは姿を消し始めオークや低木が現われてくる。更に前進すると、松や針葉樹がどんどん増えて森が姿を現すのです。ここの変化に富んだ生態系がたまらないのです。

 フェニックスからフラッグスタッフに走る17号線を89Aに左に折れるとスピチュアル・スポットの「セドナ」がある。ここは精神世界系の憧れの地、パワースポットなのだ・・・今回はセドナには寄らず、フラッグスタッフから一路40号を西へニューメキシコを目指す。目的はナバホ保留地の中心にあるウインドロックへ・・・・・と、その予定で走っていたら途中でメテオ・クレーターまで6マイルと書いてある。


 ”でっかいクレーター(穴ぼこ)”映画か何かで見たことがあると思い出すと、ついついハンドルを左にきって細い砂漠道を入って行く。見えて来ました、確かにデカそう・・でっかい隕石が落ちたのだろうけど、その衝撃で盛り上がったところが横に広がっていて穴のデカさが想像できる。期待感いっぱいで入場ゲートへ・・入場料20ドル。アメリカにしては高い!穴ぼこ見るだけなのに・・・と思いつつ、ゲートでチケットを受け取る黒人のおじさんが「穴ぼこ見にきたんか?」「そうだよ。でもここ穴ぼこを見せるだけで20ドルは高くない?」「だって、ここは山も同時に見れる所なんだから」と言う。こんな砂漠の真ん中で山があるわけないじゃないと思い、周りを見渡しながら「どこにその山があるの?」と尋ねると、彼はヒョイとチケットを反転させて僕に見せる。何が言いたいの?と思いながらチケットを見てみると、確かにクレーターの写真を逆さまにするとクボミが砂漠に浮き上がった山に見えるから、あら不思議・・・「おじさんの冗談最高だけど、とってもインスタントの山だね」と僕。「楽しみな」と彼・・・・・おそらくあのオジサンいつもこれで観光客を煙に巻いているのだ。憎めないアメリカンジョークだ。ここはクレーターより、オジサンの冗談が見ものだったなぁ・・・僕には。 ギャラップという地のモーテルでその日は泊まって、次の日は近くのウインドゥロックへ。

 風が開けたのか?山がアーチ状に輪になっている。人間が遠くの友人にOKサインを出すように、山がOKサインを出している。なんだか、「お前の生き方はそれでいいのだよ」と言われている感じ、やさしい風景・・・・インディアンの人々もそんな気分になるのかなぁ。それとも、昔この大陸にあって、今は失われた自分達の優しく穏やかな世界を、あの輪から時空の中に見ているのかもしれない・・・



     山のあなたの空遠く 「幸い」住むと人の言う。
        あゝ我人と尋ゆきて 涙さしぐみ帰りきぬ。
             山のあなたになお遠く 「幸い」住むと人の言う。




 自然とカール・ブッセの詩が口からついて出る。彼らの大地・・・彼らが守りぬいた自然・・・・どれほどの悲しみ、アイデンティティ・クライシスを彼らは経験したことだろう。奇しくもその日はインディペンデンズ・デイ(7月4日・ジュライフォース)アメリカ独立記念日・・・

 全米では花火が夜空を彩る日。インディアンの独立はいつ・・・



 チンデの街を抜ける106号と206号を結ぶ道、その時の景色は最高だった。まさに平原部族の大地。

 左の方に、インディアンの聖地、ブラックマウンテンが見える。どこまでも広がる地平線・・・・・ダイビングをする僕は海の中と同じだと思った。海の中で岩をすり抜けると広くブルーな世界が視界の前に現われる。

 それと似た感覚・・・数時間走り、丘を抜けると、突然、視界がワイド画面になった。視野に景色全体ががおさまらない。日本で暮らしてきた僕にはあまり見慣れない景色・・・・・陽光が雲の間から広大な大地に降りそそぐ、影と光によって絶妙な陰影が遥か先まで大地にマダラ模様を描いている。巨大な雲が落した影を数え切れないほど大地が映し出している。それくらい大地が広いのだ・・・・・

 浅い海で光が砂底に明るいマダラ模様を映しだすように・・・・・この大地もはるかに大きなスケールで光の芸術作品を遠くまでくり広げている


 遠い左の前方では黒い雲が重さに耐えかねてすり鉢状に下へと下降線をたどる、その下では雨が降っているのがわかる。でもこちらの天空では青い快晴の空が果てしなく続いている。右の遥か、遥か、彼方でも雨が降っているかもしれない・・・・巨大な大地では遥か遠方の天気の様子が360度のパノラマで見渡せる。
 ぬけるようなブルーの空に真っ白な雲が浮かんでいる。遠くになるほど雲が小さくなる。雲で遠近を感じるほど、空がどこまでも広がっている。それと重なっている地平線はかすんで終わりが見えない。



 その広がる大地を、アリの子にも満たない僕のジープが走る。僕の存在意義だのプライドなど、どこにあるのか、このままジープもろとも消えて大地に溶けてしまいそう。僕達はこの大地に這いつくばって生きている、いや、生かしていただいているのだ。僕は今この瞬間に、このまま大地に溶けて消えてもいいかなと思った・・・・・・これは「生」を放棄しているのではなく、今、生きていることを楽しんでいるからこそ、この瞬間に消えてなくなりたいと思ったのだ。この不思議な感覚はどう説明したらよいのだろう。今ここにいること、太陽を浴びていること、風を感じていること、体から汗が流れること、すべて大地からいただいている喜び。細胞が、今この時に喜びの舞を舞っていた。僕は何をしてきたのか?求めるものはすごくシンプルなものなのだ・・・・そして僕はこの旅に出してくれた家族、代行を依頼した林先生や多くの仲間の顔を思い出していた。この景色みんなに見せたい!

 孤独な旅なのに僕は愛に包まれていた・・・・至高体験ドライブ。



 僕はその日にニューメキシコ州からアリゾナ州のキャニオンデシェイのロッジにチェックインした。

 キャニオンデシェイ・・・ここはナバホがここに住みつく以前の昔にアナサジと言われる消えた部族の住んでいたところ。彼らは断崖絶壁の途中に家を作り暮らしていた謎の民だ。どうやってあそこに上がって行くの????と疑問符だけが頭に浮かぶ。
 まさに天空の民だ。



 宗教的な目的か?何かに彼らが脅えていたのか?単純に高いところが好きだったのか???それとも彼らが空を飛べたのか・・・ロマンは果てしなく広がる。

 その後にナバホ部族がここに住み着き、ここが聖地となる。僕はその日、峡谷の上からグランデシェイの谷底を見て回った。



 自然に出来上がった広大な地球の裂け目。上から見下ろすと90度に切り立った絶壁。断崖・・



 日本なら間違いなく自殺の名所になるのかな。こういうところには電話ボックスがあって「最後にお電話を・・・」「死ぬ気になれば何でもできる」などと書いてあるのだが、ここではそのような気配すら感じられない。明るい太陽に照らされた自然の偉大さの前に、そんな気持ちもどうでもいいやという気分にさせられるだろう。



 断崖の上から下を見下ろしているのに、僕はなぜか怖くはなかった。インディアンの聖地だからか? 不思議に何かの安堵感があった・・・遥か下のほうに道が見える。緑の畑もある。のぞき込むとそこに隠れた村がある。ナバホの村だ。峪底の下の村から牛の声が聞こえて、のどかで、なぜかなつかしい気分にさせる・・・小人の世界をガリバーが上からのぞいているようで、手を伸ばせばとどきそうな穏やかな村・・・・

 「風の谷のナウシカ」の風の村にそっくりだと僕は思った。峡谷の上の空には絵に描いたような雲が浮いている。ここらの雲は真っ白く輝いているから膨張して大きく見える・・・その大きな雲が動かないで存在感を持って、ぬけるような青い空に浮んでいる・・・・大地が大きいと上空の気流も安定しているのか・・・日本のように空がせわしくないのだ。



 ほとんど観光客とも出会わなかったことを良いことに、僕はそこの断崖の上で座禅を組んで瞑想した。自分を取り巻く岩や風や空や光が僕を優しく包んでいく・・・そして僕はそこの景色に同化することだけを考えた・・気分はまるで仙人・・・風が優しく僕のそばをすり抜けてゆく・・・バンダナから伸びた後ろ髪が風を感じる・・・僕はその時、時空間を越えた・・・



 気がつくと日が沈み始めていた。すべて周りきる時間がない!

 そう思い僕はヨロッと立ち上がった・・・見上げるとアリゾナの夕暮れ。独特のパープルとピンクの層が遥か地平線を彩る・・・それが刻一刻と姿を変える。雲が何層にも折重なりながら色を変えながら動いていく・・・・夕日を巻き込みながら・・・・・

 「地球が生きている」と独り言のように僕はつぶやいていた。

 「もう周れなくてもいいや・・・・」と心の中でそう思う。ここは日本じゃないし、観光ツアーのように狂ったように名所めぐりをする旅ではないのだ。理屈ではなく、今はこの夕暮れを見ていたかった。僕は心の命ずるままに、その場所で一人たたずんでいた。空がダークカラーになり星が出るまで・・・・



 感動は下のロッジに帰ってもなかなか冷めなかった。音楽を求めてテレビを付けては見たものの、画面からは華やかな独立記念の式典と花火がいたるところで上がっている・・・有名ハリウッドスターが独立憲章を朗読している。   

 いつも、にぎやか好きの僕だから街にいて花火を見れば良かったと思うところだが、午前中に行ったナバホ資料館で白人によるインディアン迫害の歴史をみて感傷的になっている今の僕には、複雑な心境だった・・・・

 多くのインディアンの犠牲。それを忘れているように成立っている「自由」という単語。華やかな側面だけの「自由」という単語が繰り返されることに妙にむなしさを覚えてテレビのスイッチを切った。

 ベッドの上で僕は考えていた。明日はホピ族の保留地を通って、スーザンさんと合流する。そこで僕の一人旅は終わりだ。時間的に下を回る時間はないし、ツアーに参加すれば、終日だから待ち合わせには間に合わない・・・そう思うともっと何かを感じたい。そう思うと眠れなくなった・・・あそこの峡谷に夜中一人行けば何かを感じるかも知れない。真夜中の峡谷は暗黒の闇・・・ナバホの人たちの伝説には、彼らの先祖は地下からバッファローに導かれてこの世に現われたと言う。 まさに夜中の峡谷は地下につながる巨大な入り口かも知れないと思った。僕は車のカギを持って外へ出た・・・・シーンと静まりかえった駐車場・・・・でもなぁ。コヨーテがいたらどうしよう。道端で一度見かけたけど犬よりもみすぼらしく痩せていたから大丈夫。でも、集団になるとやっかいかな・・・などと決心がつかない。

 ふと空を見上げる・・・気がつかなかったが、街とは違って満点の星空。 時より思いもよらない瞬間に、目の端で星が流れる。美しい。危険なことはあきらめて、部屋に毛布を取りに行き、人目につかない駐車場の脇に寝そべる。



 僕は星々の沈黙のミュージカルをしばらく楽しんでいた・・・・

 誰かが向こうから走ってくる気配。でも、ここは植え込みの横だから見えるはずもないと思っていたら、その足跡は僕の植え込みの反対側で突然止まった。

 「やーっ。いい夜空だね」まるで僕がそこで何をしていたかを知っていたかのように・・・・彼が突然声をかけてきた。不審な存在の僕に抵抗もなく。

 驚いたのは僕だ。「空がキレイだから、星を見ようと思って」自分で自己弁護よろしく説明をし始めた。そんなこと、気にしてやいないとでも言うように彼は夜空を見ている。



 あまり何も聞かれないのと、沈黙の間に耐えかねて「ツーリストですか?ここのロッジの従業員ですか?」と僕はたずねた。

 「いや違う・・・・」と言っただけで彼は空を見ている。

 彼は上から声をかけて空を見ているので顔がわからない・・・なぜだか表情が見えない・・・でも危険な人物ではないことだけは僕には分っていた。

 なんとなく感じたまま「あなたはネイティブアメリカですか?」と僕がたずねると彼は軽くうなずいた。・・・それ以上の質問を避けるように「君はタバコを持ってるかい」と唐突な問いかけ。

 僕は「ごめんなさい。僕はタバコを吸わないので」「いい事だ。あれは祈りのもので、快楽のものじゃない」インディアンの勉強を少しずつしていた僕は「そうですね・・・」とだけ応えた。

 「星を見たければ、あちらの方角がいい」と彼は指をさした。相手から話しかけておいて顔も見ないで空ばかり見ている失礼な人だなぁ、と思っていたが、彼は僕のために星を探してくれていたんだと理由が今わかった。次に彼は「きっとおもしろいものが見えるから」と言った。

 「そうですか・・」とその方角に目をやるや否や二つ同時に流れ星が本当に落ちたのだ。 「すごい!」と彼に言おうとすると、彼の姿がない。僕は立ち上がり彼を探した。彼はすでにロッジとは反対の山の暗闇に向かって歩いていた。僕は感謝を込めて「いま同時に星が二つ流れましたよ」と声をかけると、彼は振り返らず「だろう」とだけ応えた。そのことを知っていたかのように暗闇の中に消えていった。

 後で考えると不思議だと思った。彼は誰?こんな時間に何をしていたのか?でも、不安より心がホッとする瞬間だった。

・・・・僕は明け方まで駐車場で星を楽しんでいた。



・・・・後で知ったことだがキャニオンデシェイの峡谷では多くの悲劇があったそうだ。スペイン、メキシコ、最後にアメリカの白人から攻撃されて多くのインディアンが女性や子供も含めてたくさん殺されたそうだ。白人に追い込まれて白人にしがみついて自ら峡谷に飛び降りた女性悲劇の話も後から聴いた。夜中ひとりで峡谷に行こうとした僕の無知さに我ながらあきれた・・・・人一倍怖がりなのに。



 次の日は、ナバホの保留地からホピの保留地を通って、ラグの買い付けにナバホ族のマリーさんの家に行っているスーザンと合流するために向った。(*スーザン小山さんの紹介は最後にしています)



 ホピとは「平和」という意味。僕の知っている範囲では彼らの長老達はとても文明の侵入を恐れている。インディアンの中でも最近まで外に対して門を閉ざしてきた。そしてこのホピの保留地から掘り出されたウランから広島、長崎の原爆が作られたこと。核時代の到来は彼らの予言の中にあったので、彼らはその土地の採掘を最後まで反対したそうだ。

 この土地に眠る大地のパワーの封印を解くと“灰のいっぱい詰まったヒョウタン(核兵器)”が作られる。そういう予言が彼らの長い歴史の中で受け継がれていた。
彼らは今の世界を第4の世界と言っている。第1も、第2、第3も自分達のおごり高ぶりのために、創造主から滅ぼされたと信じている。そして多くの先住民の言い伝えにある“浄化”のプロセスはすでに始まっていると・・・・



 「わしら先祖はこう伝えてきた。“いつの日”にか、何かのバランスが“崩れると”悪いことが次から次へと起こり、大地の人々の命が“破壊される”と。わしらは長老たちから、そう教わった。」

 「長老たちは、同じことが大昔に起こったことがあるので、再び過ちが繰り返されることを知っていたのだ。だからこそ、わしらホピは大地と生命のために、その予言を世界中の人たちに伝え歩かねばならなかった」
 彼らは予言を全世界に伝えるために長老の一人を国連まで送っている。でも、それから世界はどれほど変わったのだろう?

 彼らは言う。「母なる地球を救うために心を一つにして、創造主の教えに立ち返るべきだと。誰も耳を傾けず、理解しないなら、この地球は死刑の宣告をされることになる」と・・・・・

 彼らの予言は死の予言ではなく、立ち直ってほしいという祈りがある。

 今や自然のサイクルは途切れつつある。そして、人は人を信じられないでいる・・・
 輪の崩壊。縁、サークル、円(丸)、どれをとっても日本人には馴染みのある言葉。



 彼らの予言の一つに“子供達は親や年寄りを二度と敬わなくなるだろう”というものがある。



 メディスンマンの一人、マニトクアートはこう言います。



 子供と老人には、自然な結びつきがあります。老人は子供にとって一番楽しみな存在であり、老人にとって子供は、最高の喜びです。まだ、幼い頃、大好きな祖父母と過ごしたことを覚えています。老人達は時間的に余裕があるので、子供達に気をくばり、感謝をし、耳を傾け、何かを上手にすることができた時には、子供達をほめて自信を持たせることができる良い講師です。

 幼い時には、抱きしめてもらったり、なでてもらう必要があります。日中ほとんどの人が忙しい中、老人にはそれをしてあげる時間があります。老人のひざは開いています。そして年輪を経た知恵がその場所にはあります。子供達は、成長するにつけ物語が好きになりますが、一番お話し好きで、うるさい聴衆を愛しているのは誰でしょう。老人です。たくさんのお話しをその目で見てきた人々です。



 しかし、今日、老人はどこにいるのでしょう。老人ホームや養老院の中ですか。子供たちは近づけません。目に見えない隔離が展開されているのです。人々の心のバリヤーです。

 西洋文明は、年齢を差別する文化を育てています。老人たちを一つの固まりとして、差別しています。「高齢者」とうまいことを言っておだてていますが、実際に彼らの生活はしにくくなっています。健康で働ける力があっても、定年退職させられます。退職すれば倦怠感に襲われ、収入が減ってゆき孤独に悩まされるようになります。そして、老人は社会の重荷と思わされるのです。

 一般的に今の文化は、老人は、身体がガタガタでボケていて、子供同然という見方を助長していきます。そう言われると老人も自分でその思いにかられるのです。多くの植えつけから得られた老人のイメージは男女の区別もなく、ただ過去に生きている人たちぐらいにしか見ていません。(このような文意で良いでしょうか?)特に老婦人に対しては厳しいものがあります。男性は年をとると魅力的になるという見方もありますが、女性は違います。ファッション産業が、外見の若さに焦点を当てているためです。


しかし、実際には今の老人は昔に比べて健康だし、知識も豊かです。精神的にも、かつてないほどに鋭敏で創造的です。それに、もう美しさを保つことや見かけにこだわる必要もありませんし、社会的に成功しなくてはいけないというようなプレッシャーやストレスも少なくなっています。また、人生の浮き沈みや、愛するものとの別れという経験をずっと多くしているので、忍耐力の英知が宿っています。



 もし人間が、天地万物の恵みを経験するための学校として、地球に価値を置いたら、きっと多くのことを経験してきた人々を、もっと尊敬することでしょう。どんな人にも役に立つ特別な知識を持っている彼らを・・・・
 幼い子供たちも同様に、特に大人が忘れてしまった知識を持っています。そして老人たちは、他の人が彼らの年齢に達するまでは知ることができない知識を持っています。彼らの経験は貴重であり、また生き残ってきた賢さ、強さだけでも讃えられる価値があります。老人の知恵を生かしているコミュニティーは、長く持ちこたえることができる文化の輪です。

 コミュニティーや自分の社会を再建するのなら、老人を孤立させてはなりません。

 あなたの家族です。連れ戻してください。敬意を払ってください。子供たちのもとへ、返してあげてください。

 だから、インディアンの間では、こう言われています。

 「長老を尊敬しなさい。」



 僕はホピの保留地を走りながら思っていた。人間の持っている心のエネルギーは大きい・・・・それは森羅万象のバランスを崩すほどに影響する・・・



 今、世界はいろいろな問題が噴出している。自然のバランスも崩れ始めている。彼らインディアンが言うようにすべて人々の心がそれを創り出しているとするなら、人と人との縁が切れたとき“人類は浄化の対象”になる。そう考えると何かしらの焦りを感じた。いつも自分を追い立ててやまない焦りが僕をまた襲った・・・・日本にいる時から追い立てられている焦りの正体を見たような気がした。





★スーザン小山さん★
 スーザン小山さんは作家でもあるが、インディアンの生活を向上させるべくインディアンジュエリーを世界に広げる役割を担っている。彼女はその収益をインディアンの多くの団体に寄付している。彼女のポリシーはインディアンのアーチストからしか買い付けをしない。白人が商業主義から作った商品などは、それこそインディアンの文化を白人と同じように搾取することにつながるという考えが彼女にはある。近年、日本でもドリーム・キャチャアー(ベッドなどの窓辺に飾ると、悪い夢から守ってくれる)やインディアングッズが流行っている。しかし、大切なことは「モノ」ではなくその背後にある「祈りの力」なのだとスーザンは言う。そこに本物にこだわる彼女の意図があるらしい。スーザンさんはメールマガジンを発行しているので、詳しくはこちらに!

     http://www.melma.com/mag/32/m00025032/index_bn.html





∽∽協会より∽∽
 色々と情報が錯綜しているようですが、ある情報通によれば衛藤先生は7月末〜8月中頃まで、映画”ダンス・ウィズ・ウルブス”の舞台となった、サウスダコタの「ラコタ族」のサンダンスに行っているようです・・・ ここではどのような体験をされるのでしょうか?
 次回の”ひとりごと”も楽しみですね!

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