2001年は陰ぼめしましょ! | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■2001年は陰ぼめしましょ!
2001年1月9日
 ついに2001年になりました。子供の頃、何かの雑誌に載っていた写真。それは未来に存在するであろう宇宙船。それがスタンリー・キュブリック監督の映画「2001年、宇宙の旅」の1シーンであることを知ったのは、それからずっと後のことでした。夢多きあの頃、想像していた未来に私たちは生きています。

 今年の協会の目標は「陰口を言わない。聴かない。加わらないです。」何を今さら常識的な事と思われるかも知れませんが、子供の時に教わったことでも、大人にも出来ないものなのです。

 「歴史は、夜つくられる。」と言いますが、「憎しみは、陰で助長する。」ものです。ここだけの話は、ここだけでは収まらないものです。また、皆が言っていたという話は、その人がそう思っている、ことが多いのです。これは心理学では常識です。

 しかしながら、人は噂話が好きです。とくにマイナスな噂話は蜜の味ときている。酒の席では、あちらこちらにマイナスの噂話が花盛りです。

 松下政経塾の元塾長の上甲 晃さんも言っていましたが、ある日の宴席で「今日の飲み会は悪口禁止で飲もうや」ということになり「あの上司も頑固だ。頑固だ。と思ってきたが、あそこまで自分を通せば、あれはあれで信念だよな」「そうだな・・(沈黙)」(沈黙の山)その晩は盛り上がらず、みんなの帰りが早かったそうです。酒の肴には噂話はうってつけなのかもしれませんね。

 酒の席なら頭も回らず理性もきかなかったのかも知れませんが、理性的な頭で「良い」だの、「悪い」だの他者を批判している人がいます。

 人間には、二通り人間が存在すると思います。自分では何もしないで作品や人物を批判する批判型人間。もう一方は、みずから黙々と行動して何かを創りだしてきた創造型人間。

 創造するには力がいるし、その苦しみに耐えてきたキズがある。もともと創造の「創」は「キズ」の意味です。その痛みが判っているからこそ、自分で何かを創り上げてきた人は、人をあれこれ批評をしないのです。

 映画監督は、他人の映画の批評をあれこしないそうです。映画評論家は、だいたい映画を作った事がない人が多いようです。もちろん「創った苦労」が、わからないからこそ簡単に良いとか悪いとかを映画批評できるのでしょうけど。
 冒頭で挙げたスタンリー・キュブリック監督も他者の映画の批評を求められて「あなたは映画を造ったことがありますか?」と顔を曇らせたそうです。
 
 何かを、あれこれ「批評」していると、人から簡単に注目を集めることができるのです。たとえば、ある映画を見ていなくても、その映画の評論家の意見を何かの雑誌から抜粋して、その見ていない映画の話に及んだ時に、その抜粋記事を、それっぽく語ってみる。「あの映画は〇〇〇だよね」これらの批評は、一時的には注目を集めるには効果があります。だからこそ、心がさびしい人は、他人から関心を集めたいために、「あの絵画は〇〇だよ」「あの講師は〇〇だよね」「あのプロジェクト・メンバーでは〇〇できないよ」「俺なら、あんな試合はしないよ」と他人のやることを、自分は安全地帯にいながら簡単に批評するのです。安易に努力しないで注目を集めるパフォーマンスだからこそ、理屈屋で批評家の達人は後を絶たないのです。

 だからこそ、生きるとは「踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊なら損そん。」なのです。人生という舞台で一生懸命に生きて、泣いて、笑っている側にいるのか。何かに努力してきた人を、苦労もしないで、あれこれと批評し、自分勝手に分析している側にいるかでは、人生はまったく違ったものに見えてくるものです。スポーツは参加することに意味があるのです。参加していないと、苦しさの先にある喜びは理解できないと言われます。
シンクロナイズド・スイミング競技にみる優雅さの水面下に苦しい努力が隠れています。

 それは、けっしてスポーツだけではありません。仕事でも、生きることでも、簡単に見えることの裏側に、いかに多くの汗と涙が流れているかがわからない。そのような人は他人の行為や、わずかな言動を捕らえては「過度の一般化」で決めつけて人を裁き始めるのです。ニーチェは「世界は深い」と言ったのは、物事は単純ではないということでしょう。

 だからこそ、批判型人間の集まりはやがて衰退してゆくのです。なぜならば人を「けなす」のと「ほめる」のは、どちらが「知恵」と「優しさ」と「力」がいるのでしょうか?もちろん「ほめる」ほうが人間的な安定とセンスがいるものです。何より人を「ほめている」時の方が、心は軽やかだからです。人が何かを「批判している時」の顔は何かむずかしい顔をしていませんか。むずかしい顔になるのは、交流分析では「隠された意図」があるからだと言われています。何かのマイナスな情報を流している人も、やはり何か隠れた動機があるのでしょう。だからこそ笑えない。でも、人を「ほめている」時の顔は誰もが笑顔です。

 自分に自信がない人は、簡単に批判型人間に陥ってしまいます。そして、そのような人々は不平・不満だけで、他者と結託して内部の結束力を固めます。そのような人々が「正義」とは、「真実」とは、何かを語りだすと、それは恐ろしい集団に変わってゆきます。
 そして語っているうちに自分たちの正義に酔い始めます。やがてマイナス集団へと変貌していることに気づかないのです。すべての戦争は自国の論理、自分たちの正しさ、を疑ってかからないところに最大の問題があるのです。人は道徳的という言葉が好きです。絶対的な正しさに片寄ります。しかし、その道徳観、正義が片寄った情報かも知れないという疑問は、「正義」とか「真実」という美名のもとに麻痺してしまうのです。

 そのような危険性に、気づかないのが「陰口」です。それも「あの人のために言うのよ」とか「ただ間違っているから」と道徳的というスタンスで始まる陰口には、危険なワナがあることに気づきません。

 批判や批評も情報として、直接に相手に伝えるのであれば、相手も何かの参考になる場合がありますが。陰口の問題点は、当人のいない所での欠席裁判です。弁明も釈明の機会も与えられない。恐いことに正義の心が、批判されている側の立場も、心の痛みも見えなくさせてしまうのです。その危険性は、過去の独り言で「真実という名のペルソナ」にも書きましたので重複するのでふれませんが。だからこそ、自分の正しさに始まる「陰口」は麻薬なのです。

 我々、カウンセラーは夫婦カウンセリングでは、可能な限りどちらからも情報を聴くというのがカウンセリングの鉄則です。なぜなら、人間はどこまでも自分が可愛いのです。僕だってそうです。あなたは違いますか・・・それはご立派ですね。凡人は自己を弁護したくなるものなのです。だから、どうしても人は自分の有利なように会話が片寄るのです。ですから、双方から事情を聞かないと真実が見えてきまん。

 僕は何か言いたいことがある時には、心に貯めないで言うようにしています・・・というより、我慢できなくなって言ってしまうのです。なぜなら、相手に批判精神を持ちながら、その人と笑って会えるほど人間ができていません。

 イエスを裏切ったユダは、イエスを批判者に差し出す時の合図に「接吻」をもちいたと言われています。裏切り者のユダは「先生」と言って、イエスを裏切りながら彼にくちづけをしたそうです。そういう話を読んだり聴いたりすると「ヒェーッ!」となりますが、批判しながらも、その人を越えられない時の最高のパフォーマンスが「陰口」「悪口」「裏切り」です。

 親しく寄り添いながら相手の批判をする。このようなことが私たち社会には哀しいほどに多いのです。カウンセラーという専門性は「守秘義務」が何よりも優先されます。
「ここだけの話で・・・」始まる内容は、簡単にこれを見失う危険性をはらんでいるのです。他人の秘密を扱うカウンセリングを勉強する者において、これを再度、自己チェックしなければなりません。

 21世紀はシンプルな世紀にしたいです。嫌なことや誤解があるなら直接本人に伝える。もし、陰で言うことがあれば、「陰ボメ」。これは陰で「ほめる」。

 これを教えてもらったのは福岡の友人で、受講生の本城武則さん。彼が主催する福岡未来ネットワークの会則は、絶対に人の陰口は言わないことだそうです。
陰の「悪口」も必ず伝わります。これと同じく陰で「ほめる」のも不思議と人に伝わるものなのです。もちろん、相手に伝えることを意図で「ほめる」のもどうかなぁとは思いますけどね。
でも、新世紀は、いつも仲間と笑っていたいですものね。子供のイジメは、大人の世界の中から模範を示しましょうよ。

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