真実というペルソナ | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■真実というペルソナ
2000年3月30日
 大阪府の元府知事、横山ノックがセクハラ裁判で事実を認めたというニュースが流れました。「やはり」と言う意見が大半をしめたと思います。私は正直に告白すれば少しばかりこの事件に疑問を持っていました。選挙運動中にそんなことをするだろうかという疑問です。選挙のことは詳しくは知りませんが、選挙事務所で応援活動をしていた友人から、一人の人を、みんなが一丸となって応援することのすごさと、当選した瞬間の喜び。選挙応援者の全員が感動の渦に包まれる話を、興奮しながら話しているのを以前に聞いたことがあるからです。だから、そんな状況の中でそんな卑劣な行為を、人がするのだろうかという疑問でした。
 それに、当選した次の日の事件発覚だったので、そのタイミングのよさに他の政敵からのゴシップによる攻撃の疑問も指摘されていたと記憶しています。だから、あの段階では、なんとも言えないという意見を私は持っていたのでした。
 
 アメリカでもクリントン大統領が、女性不倫問題で上院の議会から、真意のほどを追求されるという事件がありました。この事件は彼が不倫への関与を最終的に認めたことで事態が終息へ向かっているようです。ただ、アメリカと日本では、このような事件での問題意識が少しばかり微妙にニュアンスに違いがあります。アメリカでは「女性が好きであっても、政治能力があれば国民にはノープロブレムなのだ」という考えです。「女性好き=政治能力がない」は論理的に言っても結びつかないという考えです。
 アメリカではクリントンが弾劾されたのは、彼が議会で国民に虚偽の発言したことにあるのです。大統領の立場にある人物が、国民にウソをつくということには、正義を重んずる彼らは納得ができません。しかし、日本では私的な人間関係は政治の世界では、政治的手腕がいくらあっても感情論で致命傷になるようです。

 もちろん、今回のノック元府知事のように強引にワイセツ行為を強要したのでは勿論、アメリカ人も非難の手はゆるめません。そういう意味では、ノック元知事のやったことは卑劣で、被害者の女性の立場になれば弁護しようがない事件です。強制ワイセツの事実があったのなら、バカな言い訳しないで、被害者の名誉のためにも、被害者の精神的ショックを与えないためにも早急に事実を認めるべきだったのです。心のどこかで、政敵による陰謀説かもしれないと信じたかった私は、 「ノックさんは昔から女性好きだった」過去のこともマスコミから面白おかしく扱われる行為に同情すらしていたのです。

 なぜなら、マスコミの言うことを丸ごと信じてしまう国民の集団の恐ろしさは心理を勉強してきた者にとっては警戒すべきことだからです。日本でも戦争中はマスコミの情報操作で大衆を好戦的にあおりました。ですから、他人から与えられる情報で早急に怒ったり、大騒ぎすることは愚かな行為なのです。

 話は変わりますが、僕はアルバート・シュバイツァーが好きです。彼は言いました「医者が病気を治すわけではない。患者の中にある有能な医者を呼び覚ますのが医者の役目である」と。彼は西洋医療が持つ化学中心の医療を戒めていたのです。人間には自分の病気は、自分で治そうとする、免疫などの自然治癒力があります。薬ばかりに頼っても患者が自分で健康になりたいという気持ちがなければ治療は、より良い効果を期待できないのです。これはカウンセリングに通ずるところがあります。本人が自分自身と向き合わなければ問題解決できません。ですから、医者である彼の姿勢に私は強い影響を受けました。

 ところが、西洋世界ではシュバイツァーは偽善者だと言う人もいるそうです。それは、マスコミの一部が、彼を非難する中傷記事を連日報道したからです。
 そこには、アフリカにある彼の病院が、見た目にも文明的でなく不衛生に映ったということから、彼の病院では薬を患者にわたさず、シュバイツァーが患者に大きく口を開けさせて薬を与える姿などが権威的に報告されました。さらに、病院内では患者の家族に、食事の準備をさせて、病院側では食事の用意をせずに“儲け主義だ”などなど報告がされました。
 これだけの話を聞けば、人は彼を偽善者だと言うでしょう。

 ここで問題は我々が直接、本人に真意を確認することはないこと。そして与えられる情報というものは、それを伝える側の何らかの隠れた意図が存在するということなのです。もちろん、伝える側は中立のような、装いで伝えようとするので、その真意は見えません。        
 それを見分けることは難しいのです。

 以前、松本で起こったサリン事件の時に、被害者である河野さんが疑惑の人としてマスコミに登場しました。もちろん、マスコミ各社は「河野さんが犯人だ」とは言いませんでしたが、河野さんがいかに「怪しい存在」であるかということを連日報道していました。なぜなら、彼が歩いるだけなのに、バックミュージックはオドロオドロした音楽が流れ、疑惑の人というタイトルは血のりのように流れるのです。
 正直に告白すると私自身も、当時この人ではないかと疑っていました。実際に彼の家には連日「悪魔!死んでしまえ」という電話が引切り無しにかかり。窓ガラスは割られ放題で、もう新しいものに取り替えることもあきらめたそうです。河野さんに、このような心無い行為をした人たちは、マスコミで与えられた情報だけで「正義」の名のもとで行動したのです。実際に河野さんと会い、自分の皮膚感覚で「怪しい」と感じたわけではありません。ただ、マスコミの情報だけを信じたのです。 今でも河野さんの奥さんはサリンの後遺症で寝たきりだといいます。

 情報の発信側は、情報の受け手の問題だと、うそぶいてみせる。だから、情報とは流す側の「隠れた意図」が問題になるのです。

 先のシュバイツァーも、事実をよく知らない人からみた批判であるようです。

 アフリカという原始の世界から入院してくる患者に、文明の便利さを体験させることで彼らは科学技術をもたない自分の世界に帰れなくなるのです。 そして、未開の人々に薬を10日分与えると彼らは直ぐに10日分をその日に飲んでしまうのです。これでは薬も毒薬になってしまいます。それにシュバイツァーは、言葉の暗示の重要性に気づいていたので、これが「君の身体にどう効くのか」とプラスの暗示を与えながらシュバイツァーみずから、必要な時に必要な量の薬を投与していたそうです。さらに、アフリカでは部族同士の争いが絶えないので、他部族から毒をもられる事を恐れて、入院患者は病院の食事をとらないのです。ですから、家族に病院の中で一緒に暮らしてもらい身内の作った食事を安心して食べてもらったのです。これらの真実を知らない人々はシュバイツァーを偽善者と今でも信じています。

 私は、松本サリン事件の反省もあって、マスコミの言うことや、人のあれこれ言う噂には乗らないようにしてきました。

 ですから、横山ノック被告が裁判で全面的に虚偽を認めたという事実が報道を観て落胆してしまいました。 
 裏切られたと言う気持ちから「事実だったのか。それなら最初から見苦しい言い訳はやめて、『私やってしまいましてん。最低ですワ。ほんまにアホでした。』と言えば、せめて、お笑い芸人としては復帰できたかもしれないのに」とテレビを観ながらコメンテーターと同じように彼を裁いて責めていました。

 その時にキッチンからテレビを見ていた妻が、さびしそうに「きっと、選挙当選の直後だったから、素直に言えなかったのね」とポツリとつぶやいたのです。
 ショックでした。自分の単純さを見させられたようで。テレビを見ながら、事実だけをとらえて怒り、他人を責めていた自分に。
 人が、みずからの保身のために、ウソをついてしまう人間の哀れな感情に、カウンセラーとして目を向けることをしなかったのです。今までの人生の中で一度もウソをつかなかったと言い切れるほど、完璧でない人間が、ウソをついてしまった人間を裁き始めた時ほど、恐ろしく人は冷淡に、正義の権化になって攻撃の手をやめないものです。
 
 わかり過ぎているほどわかっているはずの自分が、人の哀れな感情のほうには目を向けることができなかったのです。その妻の言葉に「そうだな、言えなかったんだよな」と私。「テレビのチャンネル変えようか」とニガ笑いして過ごす瞬間。

 ぼくはいつも妻である「この人に救われてきたな」と思う。いつの時も、こちらと一緒になって彼女は人を裁かない。だから、本来は気性の激しいこの僕が、反省もし、曲がりなりにも人と対立もしないで、やってこられたのだと再認識させられたのです。

 事実だけではなく、背景にある人の心の弱さにも焦点があたる、受容能力の高い人は私の周りにも、たくさんいるものなのですネ。

 情報が錯そうする現代社会で、自分らしさ失わずにいられることの難しさを考えてしまう今日この頃です。 
 
 でも、さくらの季節。日々笑って優しくいたいですね。

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