幸せと不幸は双子なのです。 | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■幸せと不幸は双子なのです。
2000年1月26日
≪人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。ただそれだけの理由である。≫
これは、ドストエフスキーの言葉です。

 現代人の多くは、条件付の幸せを求めて生きています。お金があれば、医大に合格すれば、恋人がいれば、大きな家に住めば、子供が勉強できれば、容姿が美しいければ、夫がやさしければ幸せになれるのにと、挙げ出したら限がありません。これらの幸せの特徴は、「なになにならば幸せなのに」です。ようする「条件がととのえば私も幸せなのに」です。このような人々を「日和見的思考」、「他力本願思考」といいます。状況で幸せが変わるのです。条件しだいでいつでも簡単に不幸になります。幸せの主体は、自分にはなく、外の事柄なのです。

 これらの人々の問題は、この世の中は「幸せ」と「不幸」は、「双子」であるという事実に気づいていないのです。

 お金があれば、財産を失う怖さを同時に相続するのです。医大に入れば、落第しないようにしなければなりません。もちろん、日本の大学は、入りさえすればなんとかなる。と言われますが、なんとかうまく医者に成っても、そのあと医療ミスをしないとは限りません。恋人ができれば嫌われないようにと、不安を持ちます。出会いの瞬間の中に、別れの影は同時に付きまとうのです。

 ある年配の紳士が、この正月休みに息子夫婦が、孫を連れて来てくれましたと、目を細めて語ってくれました。
孫が、食事のときに食卓の周りで走るんです。それを見て思い出しました。息子の幼かった時のことを。よく私は、息子を怒鳴ったんです。「食事のときくらい静かにせんか」ってね。今となってはなつかしい思い出です。ところが息子が孫に、私の時と同じように注意しとるです。「うるさい!」ってね。
わたし、後で息子に耳打ちして言いました。「子供が走り回って、にぎやかなのが幸せやで」ってね。「たのむから走り回らしてくれ。父さんなぁ、小さな、お前が帰って来たようで、なつかしのや」息子は照れくさそうにしてました。         
その息子が、数日で仕事があるから言うて孫と戻って行きましたんです。その後は、なんか静かでね。年老いた夫婦二人の生活です。
先生なんですなぁ、淋しいですわ。もっと息子が幼かった頃、しっかりと子育て楽しんでたら良かったなぁ。と遠くを見つめ語っておられました。

 ご主人にさきだたれた奥さんは、「夫はイビキがうるさくてね。でも居なくなってみると、あのイビキが懐かしくって。あのイビキがあったから安心して寝むれていたのです。」と淋しそうに語ってくれました。

 私の長男が、小児ガンで入院した時もそうでした。小児ガン病棟の母親たちは笑顔が絶えない。なぜなら、助かるかどうかわからない幼い命だから、楽しい思い出を一杯与えてやりたいと思うから、親達は涙を抑えているのです。
だから、夜、子供たちが寝静まると、あちらこちらから抑え殺した泣き声が聞こえてくる。
「元気に生んでやれなくてごめんね。お母さんを許してね。こんな痛い思いをさせてしまってごめんね。がんばって生まれてくれたのにごめんなさい。」
  人生の悲哀や苦しみを抱えた悲鳴に近い抑えた泣き声なのだ。

 そんな中にあっても、仕事であるカウンセリングを私は続けていた。
「子供が親の望む学校に行ってくれない」とか、「子供の成績が伸びない」とか「子供が私に反抗しだした」と親の悩みはそれぞれなのだが、なぜだか共感ができない、受容ができないのです。カウンセリングの基本セオリーを維持できない。
「何を言いたいんだ、この人は?」親に逆らうほどに、子供が大きく成長したのですよと自慢にきたのか。この人は悩みできているのか、それとも、僕に対してのあてつけなのか? という不思議な体験。 もちろんカウンセラーとして理屈では、わかっているのです。悩みは、人それぞれに違うということは。      
でも、心が納得いかないのだ。「悩み」が「自慢」にしか聞こえてこない。

 愛する我が子は1歳でパパとも言ってくれずに、さよならするかもしれないのに。反抗するぐらい立派に大人に成ってくれれば良いじゃないか。自分の子供と真剣に話し合える瞬間を持つことができるなら、僕はなにも望むまいのに。   
なぜそれがわからないのか? そこにあるのは「うらやましい」という感情だけだったのです。

 そのわが子が、今は小学2年生、とても生意気なのです。親の矛盾点を見事に突いてくる。「前は、こう言ってたのに」などと、恐ろしく鋭い指摘。「ごもっとも!」なのだ。こちらも負けずに、まゆを少し上げて「空悟クン、君も時より言うことが違うんじゃないの」と反撃。「だってパパは大人なのに、ズルイよ」と生意気な事を言う。でもこの瞬間がたまらないのです。とっても幸せなのだ。この子が生きててくれる。そうたしか、英語のプレゼントの語源は、「今日を生きる」だったかな。生きて悩んで、ぶつかって。大いに騒いで。まるでお祭りだね。踊る阿呆に見る阿呆、おなじアホなら踊らな、そんそん。

 子育てで、自分の事が何もできないとか。子供が私にまとわりついて離れないと、おなげきの親、諸君。「子供がママ、ママ、と甘えてくるのは今のうちですよ。
そのうちに大きくなると『ママと、お出掛けしようよ』と誘っても、『いやだよ、勝手に行けばいいだろ』と言われる時がきっとくる。その時になって、『私を慕ってくれた、あの可愛い我が子は、いずこに行ってしまったの』と後悔することにならないようにしてください。

 そのためには、子育てを味わい尽くし、やり飽きることが大切ですね。何事も中途半端だと、未練が残るのです。すべて人生に起こることは自分にとって意味があるのだと楽しむこと。

 苦しかったことが、楽しかったのだと気づいた時に、人は人生の奥行きを知ることができる。

 このように、人の人生は幸福の中にも不幸があって、不幸の中にも幸福が隠れている。まさに、「人間、塞翁が馬」なのです。

 人生は、その出来事の中で幸・不幸は同時に存在するのですね。ですから考えてください。不幸の中にも、幸せは隠れているのですよ。そのどちらに焦点を当てるかなのです。「不幸続きだ。」と、なげく人は。心にあるレンズのオートフォーカスが故障しているのです。手動に切り替えて、自分で意識して焦点を当て直しましょう。

 長い冬の後、春の暖かさが身にしみる。飢えの苦しみの後、質素な食事にも無限の奥行きを感じる。今、孤独な人は、誰かに出会う時のための準備期間なのです。そうです、しっかりと孤独を味わってください。その出会いの瞬間のために。

 幸福という旅の味を、味わいたいのなら、
   淋しさの林を抜け、悲しみと言う海を渡って行くがいい。
 そして、怒りの山をのり越えて真っ直ぐ旅を続けなさい。
     そして、歩いた旅路が、すべて大切だったと気づいた時。
           汝、幸福の扉にたどり着いていたことを知ることになる。
                                  By 衛藤

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