ゆるやかなフェミニズム | ひとりごと | 心理カウンセラー 衛藤信之 | 日本メンタルヘルス協会

えとうのひとりごと


■ゆるやかなフェミニズム
1999年4月22日
 人前で講演をするようになって時々怖さを感じることがあります。それは、多くの聴衆の前であがってしまうことではなく、こちらの真意を短い時間の中でどのように伝えられるかということです。
 何気なく発した言動が、それぞれの生活を持つ人々の中にどう浸透するかということです。これは受け入れるべき事実であり、講演者として宿命なのかもしれません。
 以前に
「幸せというものは、立派な家に住むことや地位や名誉を上げてゆくことではなく、今日も生かされているという実感を感じることであり、奥さんの作ってくれた、決して立派ではない質素なお弁当の中に日々、愛を感じることかもしれませんね……」

 「昔父親、先生はそんなに努力しなくても自動的に尊敬されたと思います。なぜなら、情報が少なかったからです。親や先生の伝える情報が貴重な大人社会の流れを知るための愉快な唯一の情報源だったからです。しかし、マスコミ社会は大人以上に社会の裏側を子供たちに急速に教えてゆく。だからこそ今大切なことは、親や先生が権力のうえで怠慢にならず、テレビ以上に面白おかしくこちらの話を聞きに子供たちが集まってくるような努力をすることが必要な時代です……」

 これは講演の一部ですが、後に聴講者の方から「弁当は妻が作らなくてもいいわけですし、昔の家族形態の父の存在はいい面と、そして大きな女性にとってはよくない面もあるわけです。フェミニストカウンセリングという存在はご存じかと思いますが…」とお手紙をいただくわけです。もちろん私自身も言われていることは「ごもっともな意見である」ことは重々承知でもあり同感でもあるわけです。ただカウンセラーとして気になるのは、文面の奥にある背景、そう その人の“心のポジション”なのです。たくさんの話の中で、何か一点だけ見つけては批評してくる人達の真意は何か?なのです。

 昔、協会の若手講師(もちろん私自身も若輩という自覚はある)が講演会で話をした。この時、彼は講演には場数を踏んでいなかったが、私が聞いていても偉そうでもなく、感情的でもなく、正しい人間関係を具体的に提案するという謙虚な立派な話振りだった。
 「彼の講演どうでした?」と聴講者にたずねると、ほとんどの人は「非常にためになった」「部下への態度を反省させられた」となかなかの良い反応でした。
 ところがある人が「彼いくつ? 若いねぇ」「ええ年齢的には確かに若いですけど、何か若さを感じられることで講演に問題点があれば今後のために教えてください。」と私が聞き返すと「まぁー青いって感じかな」と具体的な問題点が聞き出せない。決して良い感想だけが必要なわけではないので、今後のプラスになることも聞きたいと思っている私には真意がわからない。批評することで自分の優位性を保っていたいという人もいるのかもしれません。
 あるいは「大阪弁」が気になって苛立って話に集中できない。標準語で話すこと。と殴り書きで感想に書かれたことも過去にありました。もちろん話は伝えることを第一義としているので説明には標準語を使っていますが、カウンセリングの臨場感を高めるためにあえて「大阪弁」を使うこともあります。そこがおもしろいと「吉本風(吉本興業=笑い)心理学」と言われ全国に教室があるのも事実なのだけれども…

 講座で言っているように「受け取り方(感じ方)」が、世界を楽しくも苦しくもするわけですから“何か”を見つけては苛立つのは、その人の「ゆがんだ受け取り方」の問題だと一笑に付すこともできますし。
 または、人には理屈ではなく、何かおもしろくない事実(若僧のくせに自分より話がおしろい・みんなが『いいよ、いいよ』と言ってるから何かアラを探してやろう)が相手の足りなさを見つけだし、良いところにゲシュタルトで焦点が当たらないために苛立っていると受け取ることもできます。
 あるいは、劣等感が合理化され「くだらない」と言うことで「酸っぱいぶどう」のように自信のなさを補っていると精神分析することもできるわけです。

 しかし、私たちの心の中にも“裁き人”が居るのではないか、という自己洞察も必要です。自分の信じている宗教感、価値観、民族意識、習慣性など強ければ強いほど内輪集団と外集団の違いが鮮明になり、相手を裁いてしまう。
 汝、裁くなかれ。裁きは神の領域である。といった神の意志を受け継いだ宗教までも相手を裁いてはばからないのですから。
 アメリカに禅を紹介したアラン・ワッツが
 =宗教というものは、分裂しやすく闘争好きなものだ。宗教は「救われた」者と「呪われた」者と分け、真の信者を異端者と分け、内輪集団をよそ者集団と分けることに依存しているわけだから、一種の抜けがけ主義である。宗教的自由主義者ですら、「私たちはあなたがたよりも寛大だ」というゲームを演じている=
と言っています。違いを指摘しあうことからは何も生まれません。

 私がカウンセリングした女性は「私は男性のカウンセラーじゃなきゃ嫌なんです」と言う。理由を聞くと、彼女が風俗関係の仕事をしていることに原因があるらしい。
 以前に受けたカウンセリングで彼女の仕事について話がおよぶと、ある女性カウンセラーは彼女のメイン・テーマを無視して「あなたみたいに女性の性を売り物にしている人がいるから女性全体がしいたげられるのよ…」と説教が始まったらしい。自分に自信を持っている人はヘタすれば相手を裁きかねない。ここに真の問題があります。すべての戦争は自分の正しさの主張によって起こるのですから。

 トランス・パーソナル心理学のフランシス・ヴォーンは「新しい関係性」をテーマに次ぎのように語った。「今、地響きを立てて、古い在りかたが崩れはじめているんです。……女性は全く違う価値観をもっています。もう戦いは嫌なのです。夫や子供たちが血を流し合うのはみたくないのです。女性のやり方ではないからです。女性的なものが本当に必要なのは火を見るより明らかです。女性は世界の感覚者で、誕生と死に携わり、人々の面倒を見て、生命を育みます。女性の方が自然に手を結び合う傾向を持っています。男性はお互いにぶつかりあいがちです。女性はハート・レベルで伝え合うものを持っています。女性には地球を大切にする傾向が自然に備わっています。ですから女性が目覚めつつあるのは本当に重要なことですし、また喜ばしいことです」

 この文章を読まれて皆さんがどう思われましたか?「だからこれからは女性の時代なのよ。男性にはこのへんが理解できないのよ」「何が女性の時代だ。平和な社会だから女性がつけあがる」この優位性、対立姿勢が私には違和感を感じるのです。
 さてヴォーンの言う女性の意識というものは、私の中にもこのような女性面は存在しないだろうか。この価値観は男女という性別に限定されるものだろうか。という疑問がわいてきませんか。

 心理学者のカール・ユングは男性・女性という性別に関わらず、人には内部に男性面(アニムス)と女性面(アニマ)をもっていると言っています。たいていの人は自分のそれらの面をひどく抑圧しているというのです。私は性別では男性だけれどもユングのいう女性面もあるのです。感性、受容、信頼、調和、融合という部分が従来の男性社会では抑圧されていたのです。

 自分の言っていることが正しい。どちらが真実か。優位はどちらか。勝ち負け。支配する者と服従者。あなたのものと私のもの。自然と人間。この分断、支配、圧力のパワーゲームは過去二千年の従来の男性面優位の理性的社会システムです。それに対して調和、許し、全体、バランス回復、自然との融合したときの満たされた自由な状態などは女性面の感性的受容システムなのです。ここで私のいう女性面、男性面は性別のことではなく、心の中の役割のことです。
 私が伝えたいことは、真の解放運動や自己主張には対立姿勢では、何一つこれからの社会に変化を起こせないということです。そこに気づかねばなりません。21世紀は対立から融合へと「心の進化」が必要なのです。まさに心時代の夜明けです。

 フリッチョプ・カプラやピーター・ラッセルはニューエイジ運動、ホリステック・ヘルス運動、エコロジー運動、そして、フェミニズム運動は人類の意識の変化を早めるといっています。「工業の時代」→「情報の時代」→「意識の時代」へと。
 地球の中で意識を持った人類は地球の脳(グローバル・ブレイン)としての役割に目覚めるというのです。「あなた」と「わたし」から「われわれ意識」への目覚めなのです。
 この感覚に目覚めた人々をアートマンと呼びます。自然に進化があるように、自然の一部である人間にも進化はあるのです。

 この進化過程をトランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーはアートマンプロジェクトと呼びました。フェミニズムが叫ばれている時代に本当のフェミニズムとはなにかを対立せず“おだやかに話し合って”みたいと思いませんか。

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