2月22日 誕生日。結婚記念日。実母の命日。
去年の2月21日、東京羽田空港から大阪伊丹空港行きの飛行機まちのロビー。携帯電話がなる。母が意識不明。危篤状態。「ついにこの日が来たか」と確実に訪れた運命をうらめしく思いながら、そのまま大分空港へ。病院についたのは午後7時過ぎ。母は肩で息をしながら精一杯最後の生きる努力を続けている。朝から意識がなくなったままだという。
去年の夏に肝臓ガン発覚それが肺や脳に転移。脳のガンが破裂して吐血を続けている。3リットルも入ろうかというガラスの容器にたくさんの血。口に入ったチューブから吸引がつづく、もう4本目だという。イヤな吸引器の音。「信之くんが来たよ。お姉ちゃんわかる!がんばらなきゃ」まるで緊張していた空気に何か、変化でも期待しているように親族は母が愛した息子をベッドサイドへといざなう。「お姉ちゃん」「おばさん」「姉ちゃんがんばらないかんよ」職をカウンセラーに選んだ息子が来たことで何かが変わることを期待するように揺り起こそうとする三人の伯母たち。そして母を自分の母のように慕う従姉妹たち。
「みんなありがとう。もういいよ。頑張らなくていいよ。母さんはもうじゅうぶん頑張ったから。もうこれ以上頑張らなくていいよ。去年の夏から苦しい治療を文句も言わずに続けてきたんだよ。どうしてまだ頑張る必要があるのさ。だからもうがんばりはいいよ。みなさんほんとうにありがとう。だからおふくろをもう寝かせてやってよ」病室の空気が変わった。「そうだね。信之の言うとおりだ。姉ちゃんもういいよ。ゆっくり休んでね。」
従姉妹の女の子が「おばさんが泣いている。これ涙よね」と指をさす。確かにまぶたに涙がにじんでいる。
母の手をしっかり握る。まだ、暖かい。子供のとき母と別れて、ずーっと恋慕い続けた母の手。大人になって再開してからもこんなにゆっくり母の手を抱擁することがなかった。静かに子供時代にもどってゆく。キラキラ輝いた幼い頃に。「ママ」そう、たしか子供のころは「ママ」だったね、呼び方。ずーっとずーっとこの瞬間を夢見てきた。やっと帰ってきたよ。お互いに長い旅路だったね。こんなにたくさんの収獲あったよ。ぼくはいろいろ学んでこんなに強くなったんだ。別れたときは淋しかったけど、たくさんの人々に助けてもらったよ。そう僕を守って自殺した新しい母さんにもたくさんの愛をもらったよ。今はあなたも愛した妻も子供もいるよ。そしてたくさんの出会い。今の母さんならそれが見えるよね。どれほどの時間が流れたのだろう。たくさんの会話をした。とっても長いおしゃべりだっただろう。こころで会話ができるのは本当だった。
不思議なくらい苦しくなかった、すこし淋しかったけど。ベッドの脇、母のふところ。なつかしい。だから母さんゆっくり休んでよ安心して。ありがとう・・これからはずーっと一緒だから。何度でも会話にはいることができる。
気が付くと従姉妹たちが、私にベッドを譲ってタイルに座り込んで泣きじゃくっている。「ほらそこに座っていると風邪をひくよ、お兄ちゃんはもういいいからここに座って」と抱き起こそうとするが泣きじゃくっていて、どうしようもない。母のベッドの周囲には息子と離れているあいだ、母が愛したであろうたくさんの娘たちが布団の上から体をさすっている。
よかったなおふくろ。こんなにたくさんの子供たちを育てあげて。自分の子供たちとは離れ離れに暮らさなきゃいけなかったけど、こんなにたくさんの従姉妹たちに愛されて。聞いてるよ,「内の子供たちは私の言うことはきかないけど、姉ちゃんの言うことはきくのよ」っておばさんが言ってたから。俺は内心、鼻が高かったんだ。そりゃ俺の母だもんってね。
ずうっと気になっていた。時間。もうすぐ日付が変わる。母の呼吸はしっかり肩でつづいている。
そして2月22日。自分の誕生日。なぜ?偶然?わからない。
「今日、僕の誕生日なんだ。だから、もう泣くのはやめて」と従姉妹たちを椅子に座らせながら話しかける。「ありがとう。もう、泣かなくていいよ。お兄ちゃんも泣かない。おふくろはね、君たちを悲しませるために肩で苦しそうに呼吸してるんじゃないんだ。お兄ちゃんや君たちに、『どんなときでも最後まであきらめるな』ということを教えるために頑張っているんだ。だから、もう泣かないで。きっとおふくろは『もういいよ、泣かなくて。ありがとう』て感謝しているから。わかるんだお兄ちゃんには。だから、さようならって笑って送ってあげようよ」カウンセラー病か。先生病か、こんなときにも何かを教えようとする。窓の外には夜の街。その先に山の陰影が見える。でも、残念。孫である長男の小学校入学式には出席したいと頑張って治療に専念していたのに。桜を見たいと言っていたのに。また涙があふれそうになる。それを従姉妹たちに気づかれまいと必死。
そして4時すぎに永眠。57歳の若すぎる死。
こころ暖まるお葬式だった。こんなにたくさんの人に愛されていたなんて。
「いつも相談にのってもらっていたのに」「喫茶店に行ってママの笑顔に会えないことが淋しすぎる」「いつでも苦しかったらここに来なさいと言ってくれてたのに」「笑っている姿しか見たことがなかった」「私たち年寄りにも親切だった紀子さんは。淋しすぎる。年寄りの私が代わりたい」と付き添いに手を引かれた老女が泣き崩れる。母さんは僕以上にカウンセラーだったんですね。
葬式後 いつものように仕事は続く。何一つ変わりはしない。いそがしい日々。X−JapanのHideさんの死。もちろんそれまで彼を知らなかった。たくさんのファンの悲しみ。テレビから流れる。泣きじゃくる若者達。さすがに落ち込みました。ファンですらこんなに別れを悲しむのに、自分は母の死にたいして冷静すぎる。カウンセラーとして悲しみという感情がマヒしているのかもと。それから、しばらくして大阪研究コース第一期生から処女出版の記念に贈り物が届けられました。「衛藤先生はたくさんの本を読んでおられると思いますが、自分たちが過去読んできた本の中で一番のお気に入りの一冊をお贈りします。今後の活躍のエネルギーになれば幸いです」20冊近くありました。「うれしいなぁ。でもこれを全部読まないとなぁ。実際大変や」「そうですね。先生はお忙しいから。大変ですね」とカウンセラーの林君が応える。その中の一冊を手にとった。
谷川俊太郎の詩集。浅野さんからの贈り物。「へぇー谷川俊太郎ねぇ」パラパラとめくって、どれかひとつ読んでみようと開いて読み始める。目が釘付けになる。一瞬時間がとまる。
母からのメッセージ。
これが私の優しさです 作:谷川俊太郎
窓の外の若葉について考えていいですか
そのむこうの青空について考えても?
永遠と虚無について考えていいですか
あなたが死にかけているときに
あなたが死にかけているときに
あなたについて考えないでいいですか
あなたから遠く遠くはなれて
生きている恋人のことを考えても?
それがあなたを考えることにつながる
とそう信じていいですか
それほど強くなってもいいですか
あなたのおかげで
そうなんです。そんなに強くなったんです。あなたと別れて。だからカウンセラーになったんです。強くなりたかったから。泣き虫坊やとさよならするために。そのとき耳元でささやく母の声、それでいいんだよ。
「どうしたんですか。いい詩はありますか」林君がたずねる。「谷川俊太郎って、最高。」でもこれほどひかれる詩はなかったんです。その本には。
それから何日かしてから偶然は偶然をよんだ。東京研究第一期生の池田さんが「先生、これ新聞に載っていた詩なの。いいと思いませんか」
あけの星 大阪市阿倍野区 安田 朋代(35)
暁の星はまだ子供だった頃
こう、教えられたのだ「空、
ぜんたいがすっかり明るく
ならないうちはあなたの光
必要ですさいごまでそこに
光っていなさい」
「昼ひなかの
だれもみないときも
光つづけなさい」
「少しでも闇が近づけば
率先して力強く照らし
はじめなさい仲間がひかり
出せば目立たなくなるのを
よろこびなさい」と。
この詩、とっても好きです。優しい母の祈りを感じます。自分の子供たちにも伝えたい心があります。多くの人に出会い、助けられたり、愛したり、誤解されたりの連続ですがそれもこれも輝きに変え、燃え続けたいと思っています。誕生日に優しい心をくれた仲間たちへ。感謝の気持ちで一杯です。「先生がんばってください。身体に気をつけて」とやさ
しいことばを言われるたびに、あなたのほうが大変なのに。一生懸命がんばってイヤなことにたくさん耐えて講座に、カウンセリングに来てくれているのに、そんなやさしい言葉はあなたに必要なんじゃないですか。でも、人はやさしいですね。
今年の2月の誕生日の前後は、あなたの優しさ感じました。
あなたがさびしいときに力になれますようにと一生懸命にいま祈っています。
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